岡晴夫
岡 晴夫(おか はるお、1916年〈大正5年〉1月12日 - 1970年〈昭和45年〉5月19日)は戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は佐々木 辰夫(ささき たつお)。愛称は「オカッパル」「オカッパレ」
岡 晴夫 | |
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基本情報 | |
出生名 | 佐々木 辰夫 |
生誕 | 1916年1月12日 |
出身地 | 日本 千葉県木更津市 |
死没 | 1970年5月19日(54歳没) |
ジャンル | 歌謡曲 |
職業 | 歌手 |
担当楽器 | 歌 |
活動期間 | 1939年 - 1970年 |
レーベル | キングレコード → 日本マーキュリー → コロムビア → キングレコード |
経歴
編集生い立ち
編集千葉県木更津市に生まれる[1]。幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで成績はいつも「丙」だったという。六年生の時に音楽の先生から人前で歌を歌うことを勧められて歌を歌うことに興味を持ったという。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その一年後には上野松坂屋に勤める。
歌手デビュー
編集1934年(昭和9年)に、上原げんととのちに妻となる奥田清子と出会う。浅草や上野界隈の酒場などで流しをしながら音楽の勉強をする。
1938年(昭和13年)にキングレコードのオーディションを受け、専属となる[2][注釈 1]。翌1939年(昭和14年)2月には、「国境の春」でデビュー。すぐに「上海の花売娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばし、一躍スターとなる。
1940年(昭和15年)には市川市に居を構え[1]、奥田清子と結婚。3人の子供にも恵まれる。太平洋戦争末期には、軍属としてアンボン島(現・インドネシア領)に配属されるが、現地の風土病にかかり帰国を余儀なくされる[3]。
全盛期
編集太平洋戦争終結後、彼のリーゼントスタイルの髪型と独特の明るいビブラートのかかった歌声は、平和の到来や開放感に充ちた時代とマッチし、「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」など相次いで大ヒットをとばす。昭和20年代を代表するスター歌手として、近江俊郎・田端義夫とともに「戦後三羽烏」と呼ばれた。
地方巡業はどこも大入り満員で、
- 昼夜2度の公演にファンが会場へ入りきれず、「夜の部」終了後に急遽「第3回公演」を行なうことになった[4][注釈 2]。
- 大阪劇場での公演で、「夜の部」が終わって劇場そばの旅館で休もうとしたところ、翌日の「昼の部」を見るために徹夜待ちする観客が既に劇場から旅館の前まで列を作っていた[6]。
などの逸話が伝えられている。
また、ポマードの販売を行う[7] など副業でも話題を集めた。
人気低迷とカムバック
編集しかし、人気に伴う多忙さから体調を崩しがちになり、当時芸能界で蔓延していたヒロポンにも手を出すようになって[注釈 3]、人気に陰りがみえ始める。
1954年(昭和29年)には、デビュー以来専属だったキングレコードを辞めてフリー宣言(日本マーキュリーと本数契約を結んでいる)するも[2] ヒット曲にめぐまれず、人気は低迷する。それでも妻や旧友・上原げんと[注釈 4]の支えを受けて、1955年(昭和30年)にはコロムビアの専属となり[注釈 5]、上原の作曲による「逢いたかったぜ」で再出発を果たす。
だが、間もなく過労のため再び病床に伏し、糖尿病から白内障を併発してしまう。1962年(昭和37年)に再度キングレコードの専属となる[9] が、1965年(昭和40年)には上原げんとの急逝という不幸に見舞われる。
それでも舞台に立ちたい執念で、1968年(昭和43年)に放送を開始した歌番組『なつかしの歌声』(東京12チャンネル(現:テレビ東京))へ頻繁に出演し、往年のヒット曲を披露した。長年の闘病生活で、身体は痩せ往時の美声も失われるなど悲壮な姿だったが、ファンの声援を受け、彼もそれを支えに最晩年まで歌い続けた。最後のステージは文京公会堂で収録され、昭和45年3月30日に放送された。そのステージでは上海の花売娘を歌った。
死去
編集1970年(昭和45年)4月、大阪府守口市での『帰ってきた歌謡曲』(読売テレビ)公開収録へ出演する直前に腹痛を訴え、急遽飛行機で東京に帰った。空港には救急車が手配されていた。その後、飯田橋の警察病院に入院。同年5月19日に肝臓がんのため東京都千代田区の病院で死去。満54歳没。法名「天晴院法唱日詠居士」。遺骨は江東区本立院墓所に埋葬された。
エピソード
編集- 代表曲の一つである「憧れのハワイ航路」は本来小畑実が歌う予定で作られたが、たまたま小畑が東京を離れていて、岡が譲り受けた経緯がある[4][11]。その一方、岡が歌う予定で作られた「お富さん」は、完成前に岡がキングレコードを辞めたことで、当時新人だった春日八郎が急遽歌うことになり、結果として春日の代表曲の一つとなった[12]。
- 上原げんとの葬儀には、ほとんど失明状態だったが参列し、友人代表として弔辞に代えて「逢いたかったぜ」を絶唱した[13]。
- 他界した1970年の夏には、大阪万国博覧会会場でのNHK『第2回思い出のメロディ』に出演し、十八番の「啼くな小鳩よ」を歌う予定だった(死の直前まで、万博の舞台に立つことを言い続けていたという[14])。なお本番では、かしまし娘と坂本九が「啼くな小鳩よ」を歌って、岡を偲んだ。
- 紅白歌合戦には生涯出場することが無かった。これは、全盛期(紅白歌合戦の黎明期と重なる)には地方巡業のスケジュールを優先し、その後はヒット曲に恵まれず闘病生活が続いたことによる。
- 長谷川町子の漫画『サザエさん』に、フグ田サザエが「啼くな小鳩よ」を歌う場面がある(夕刊フクニチ1948年3月5日付)[15]。
作品
編集- 国境の春
- 作詞:松村又一、作曲:上原げんと(昭和14年2月)
- 大陸第一歩
- 作詞:古谷玲児、作曲:佐藤長助(昭和14年3月)
- 上海の花売娘
- 作詞:川俣栄一、作曲:上原げんと(昭和14年5月)
- 港シャンソン
- 作詞:内田つとむ、作曲:上原げんと(昭和14年8月)
- 今日も勝ったぞ
- 作詞:佐藤惣之助、作曲:上原げんと(昭和14年9月) 映画「土と兵隊」主題歌
- 親鳩子鳩
- 作詞:佐藤惣之助、作曲:細川潤一(昭和14年9月) 映画「若妻」主題歌
- 広東の花売娘
- 作詞:佐藤惣之助、作曲:上原げんと(昭和15年1月)
- 南京の花売娘(みどりの光よ)
- 作詞:佐藤惣之助、作曲:上原げんと(昭和15年3月)
- パラオ恋しや
- 作詞:森地一夫、作曲:上原げんと(昭和16年8月)
- 花の広東航路
- 作詞:佐藤惣之助、作曲:上原げんと(昭和16年9月)
- ニュー・トーキョー・ソング
- 作詞:清水七郎、作曲:上原げんと(昭和21年3月)
- 東京の花売娘
- 作詞:佐々詩生、作曲:上原げんと(昭和21年6月)
- 青春のパラダイス
- 作詞:吉川静夫、作曲:福島正二(昭和21年11月)
- 啼くな小鳩よ
- 作詞:高橋掬太郎、作曲:飯田三郎(昭和22年1月)
- 港に赤い灯が点る
- 作詞:矢野亮、作曲:八洲秀章(昭和22年6月)
- 港雨降れば
- 作詞:高橋掬太郎、作曲:飯田三郎(昭和22年9月)
- 東京シャンソン
- 作詞:吉川静夫、作曲:上原げんと(昭和22年10月)
- 男一匹の唄
- 作詞:夢虹二、作曲:佐藤長助(昭和23年8月)
- 憧れのハワイ航路
- 作詞:石本美由起、作曲:江口夜詩(昭和23年12月)
- 港ヨコハマ花売娘
- 作詞:矢野亮、作曲:上原げんと(昭和24年2月)
- 東京の空青い空
- 作詞:石本美由起、作曲:江口夜詩(昭和24年3月)
- 街の波止場
- 作詞:吉川静夫、作曲:上原げんと(昭和24年5月)
- グッドバイ東京
- 作詞:石本美由起、作曲:江口夜詩(昭和24年6月)
- 男の涙(夜の裏町)
- 作詞:高橋掬太郎、作曲:上原げんと (昭和24年9月) 新東宝「男の涙」主題歌
- 涙の小花
- 作詞:高橋掬太郎、作曲:上原げんと (昭和24年9月)
- 旅笠街道
- 作詞:高橋掬太郎、作曲:大村能章(昭和24年9月)
- アンコ可愛いや
- 作詞:松村又一、作曲:上原げんと (昭和24年10月)
- マドロスの唄
- 作詞:松村又一、作曲:上原げんと (昭和24年10月) 「マドロスの唄」主題歌
- 男の人生
- 作詞:飛鳥井芳郎、作曲:島田逸平(昭和25年4月)
- 憧れのブルーハワイ
- 作詞:松村又一、作曲:上原げんと(昭和25年6月) 「憧れのハワイ航路」主題歌
- 男のエレジー
- 作詞:石本美由起、作曲:宗像宏(昭和25年8月) 「やくざブルース」主題歌
- 哀恋ブルース
- 作詞:高橋掬太郎、作曲:上原げんと(昭和25年8月)
- 長崎の花売娘
- 作詞:松村又一、作曲:上原げんと(昭和25年8月)
- 港の子守唄
- 作詞:松村又一、作曲:島田逸平(昭和26年1月)
- 東京パラダイス
- 作詞:若杉雄三郎、作曲:飯田三郎(昭和26年1月)
- 哀恋行路
- 作詞:石本美由起、作曲:江口夜詩(昭和26年1月)
- 船は港にいつ帰る
- 作詞:高橋掬太郎、作曲:細川潤一(昭和26年5月)
- 二人のパラダイス
- 作詞:東條寿三郎、作曲:上原げんと(昭和26年6月)
- 小鳩椿
- 作詞:宗像宏、作曲:宗像宏(昭和26年9月)
- 伊豆は湯の町
- 作詞:内田つとむ、作曲:宗像宏(昭和26年9月)
- 赤いランプの貨物船
- 作詞:宗像宏、作曲:宗像宏(昭和26年10月)
- アメリカの花売娘
- 作詞:若杉雄三郎、作曲:江口夜詩(昭和27年2月)
- 花火の舞
- 作詞:若杉雄三郎、作曲:江口夜詩(昭和27年12月) 映画「花火の舞」主題歌
- 道頓堀の花売娘
- 作詞:若杉雄三郎、作曲:江口夜詩(昭和28年1月)
- 御神火つばき
- 作詞:松村又一、作曲:細川潤一(昭和28年3月)
- 別れの夜霧
- 作詞:矢野亮、作曲:渡久地政信(昭和28年8月)
- 港のエトランゼ
- 作詞:矢野亮、作曲:渡久地政信(昭和28年8月)
- さらば別れよ
- 作詞:高橋掬太郎、作曲:渡久地政信(昭和28年11月)
- 黒船物語
- 作詞:高橋掬太郎、作曲:細川潤一(昭和28年11月)
- 男涙の白椿
- 作詞:高橋掬太郎、作曲:飯田三郎(昭和28年12月)
- 今日も雨だよ
- 作詞:矢野亮、作曲:渡久地政信(昭和28年12月)
- 幸福はあの空から
- 作詞:矢野亮、作曲:渡久地政信(昭和29年2月)
- 抱き寝の長脇差
- 作詞:高橋掬太郎、作曲:大村能章(昭和29年5月)
- 若草物語
- 作詞:横井弘、作曲:飯田三郎(昭和29年7月)
- 途中下車
- 作詞:松村又一、作曲:島田逸平(昭和29年9月)
- 逢いたかったぜ
- 作詞:石本美由起、作曲:上原げんと (昭和30年7月)
ライブ・レコーディング
編集映画出演
編集注釈
編集- ^ 上原は翌年(1939年)、キングレコードの専属となる。なお、この前にポリドールのオーディションを受けたが、落ちた[2]。
- ^ 岡と共に地方巡業をしたことがあるコロムビア・トップによれば山形県鶴岡市での出来事で、会場からあぶれた客が「もう一回公演をやれ」と騒ぎ出したため、興行師が岡に泣きついて夜10時から始めたという[5]。
- ^ 岡の専属司会だった西村小楽天によると、常用の副作用から声がかすれ、周囲と口をきかなくなり、楽屋の隅に新聞紙で小屋を作って閉じこもるというような奇行も見られたという[8]。
- ^ 1951年(昭和26年)にコロムビアへ移籍していた[2]。
- ^ この前に、ビクターから専属のオファーがあったが、断っている[2]。
出典
編集- ^ a b 桑原宏「タレント風土記 千葉県 (5)」読売新聞1984年7月1日付朝刊(東京本社版)、27面。
- ^ a b c d e 「岡晴夫“フリー歌手”に終止符 上原げんとの友情に コロムビア専属で再出発」、読売新聞1955年7月6日付夕刊(東京本社版)、2面。
- ^ 斎藤茂 & 2000年, p. 237.
- ^ a b 斎藤茂 & 1996年, p. 44.
- ^ 鳥山輝「この歌に 憧れのハワイ航路(2) 若さぶつけた明るい詞」、読売新聞1990年10月28日付朝刊(東京本社版)、日曜版、4面。
- ^ 西村小楽天 & 1978年, p. 197-198.
- ^ 「変わった社長さんお顔拝見 岡晴夫さん」『富士』第4巻第3号、世界社、1951年3月、口絵。
- ^ 西村小楽天 & 1978年, p. 199-200.
- ^ 「0993 “無心に歌います” 岡晴夫の再出発」、読売新聞1962年4月24日付朝刊(東京本社版)、10面。
- ^ 「岡晴夫の歌碑除幕式」、毎日新聞1977年3月28日付夕刊(東京本社版)、4面
- ^ 「この日この時 1970・5・19 歌手・岡晴夫没」、毎日新聞1992年5月19日付夕刊(東京本社版)、9面。
- ^ 奥山弘「この歌に お富さん(2) ツキにも曲にも乗った」、読売新聞1990年2月4日付朝刊(東京本社版)、日曜版、4面。
- ^ 斎藤茂 & 1996年, p. 78.
- ^ 斎藤茂 & 2000年, p. 197.
- ^ 林るみ「サザエさんをさがして のど自慢 「番組中止」に応募者が殺到」、朝日新聞2015年11月14日付朝刊(東京本社版)、be on Saturday、e3面。
参考文献
編集- 西村小楽天『私は昭和の語り職人』エイプリル・ミュージック、1978年。
- 斎藤茂『この人この歌 : 昭和の流行歌100選・おもしろ秘話』広済堂出版、1996年。ISBN 4331505251。
- 斎藤茂『歌謡曲だよ!人生は : 『平凡』編集長の昭和流行歌覚え書』マガジンハウス、2000年。ISBN 4838712464。