山梨県立医学専門学校 (旧制)
旧制医学専門学校
山梨県立医学専門学校 (山梨医専) | |
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創立 | 1944年 |
所在地 | 山梨県甲府市 |
初代校長 | 古屋清 |
廃止 | 1947年 |
後身校 | (なし) |
同窓会 |
山梨県立医学専門学校 (やまなしけんりついがくせんもんがっこう) は、1944年 (昭和19年) に設立された公立の旧制医学専門学校。第二次世界大戦末期の空襲で校舎・設備を焼失し、1947年に廃校となった。
本項では、1945年に併設された山梨県立女子医学専門学校 (山梨女子医専) についても記述する。
概要
編集沿革
編集山梨県立医学専門学校
編集- 1943年12月2日: 山梨県職員会議で医専設立準備。
- 1943年12月21日: 文部省に医専設置認可申請。
- 1944年1月10日: 臨時県会にて設立可決。同日、文部省により山梨県立医学専門学校設置認可。
- 多湖知事は県立医専の設置理由として、(1) 国家的要請 (2) 県内無医村 (45%) の解消 (3) 地方病 (日本住血吸虫症)撲滅 の3点を掲げた。
- 創設費のうち 60万円は貴族院議員 河西豊太郎からの寄附による。
- 1944年1月17日: 甲府市議会、市立甲府商業校舎・敷地の寄附決議。
- 1944年1月20日: 山梨県立医学専門学校学則公布 (山梨県令第2号)。
- 本科修業年限4年、学年定員120名 (男子校)。
- 1944年3月5日: 山梨県病院、医専附属医院となる (4月24日改称)。
- 1944年4月9日: 第1回入学。翌10日、開校式。
- 1944年11月15日: 甲府市立愛宕病院・同 甲府病院、附属医院分院となる。
- 1945年7月6日: 空襲で校舎・附属医院全焼。
- 1945年8月17日: 県立盲唖学校 (甲府市日向町) の一部を医専附属医院日向町分院とする。
- 1945年8月22日: 県立農蚕学校 (東八代郡石和町) に移転。
- 1946年: 文部省より生徒募集停止通告。
- 1946年4月: 県知事の陳情により、女子医専と合計で 30名のみ募集許可。
- 1946年5月: 甲府市内の旧軍施設 (古府中町、旧六三部隊跡) に移転。
- 1946年7月: 28名入学許可 (のちに女子医専と合計で 14名補欠合格)。
- 1947年1月29日: B級医専と判定され、廃止決定。
- GHQ/SCAPが、山梨県の財政規模では復興・運営は無理、と判断したため。
山梨県立女子医学専門学校
編集- 1944年11月: 山梨県通常県会にて開校決定 (1945年4月開校予定)。
- 校舎・教員は山梨県立医学専門学校と共用。
- 1945年3月: 入学試験実施、定員80名に対し 90名合格。
- 1945年7月5日: 入学式・開校式。
- 1945年7月6日: 空襲で校舎全焼。
以下、山梨医専と共通の事項は省略する。
- 1946年7月: 2名入学許可 (のちに医専と合計で 14名補欠合格)。
- 1947年1月29日: B級医専と判定され、廃止決定。
- 女子医専在校生の大半は医学を断念した。
後史
編集歴代校長
編集- 山梨県立医学専門学校
- 初代: 古屋清 (1944年2月 - 1947年)
- 山梨県病院長
校地
編集- 校舎
山梨県立医学専門学校の開校時は、甲府市青沼にあった市立甲府商業学校 (現・甲府市立甲府商業高等学校) の校舎を使用した。翌1945年開校の山梨県立女子医学専門学校も同校地を使用したが、開校式翌日の甲府空襲で校舎は全焼した。第二次世界大戦終戦後は医専・女子医専ともに、県内東八代郡石和町 (現・笛吹市) の山梨県立農蚕学校 (現・山梨県立石和高等学校) に間借りしたが、1946年5月には甲府市古府中町 (現・北新) の旧陸軍六三部隊兵舎に移転し、廃校まで使用した。
旧青沼校地は 1946年6月に山梨県から市立甲府商業学校に返還された。現在、跡地は甲府市総合市民会館となっている。
- 附属医院
甲府錦町 (現・甲府市中央1丁目) にあった山梨県病院 (1876年創立) を医専附属医院とした。附属医院は 1945年7月の空襲で全焼した。
関連項目
編集関連書籍
編集外部リンク
編集- 山梨県立中央病院のあゆみ - 元附属医院
- 甲府市立甲府商業高等学校 沿革 - 医専創立時に校地を使用
- 総合市民会館: 市立甲府商業学校跡・青沼遺跡 - 甲府市HP: とびだせ! 市民レポーター 2006年8月号(WARPによるアーカイブ)