山本荷兮

江戸時代の俳人

山本 荷兮(やまもと かけい、慶安元年(1648年) - 享保元年8月25日1716年10月10日))は、江戸時代俳人。山本氏。名は周知、通称は武右衛門、太一(太市)。号は加慶、一柳軒、橿木堂、撫贅庵。晩年は連歌師として昌達と号して、法叔に叙せられる。

来歴

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来歴は『日本古典文学大辞典』第1巻に拠る[1]

慶安元年(1648年)、名古屋城清水に生まれる。尾張藩士であるが、医業を生業にしていたと伝えられる。荷兮の句の初出は、貞門派椋梨一雪『晴小袖』である。延宝5年(1677年)、談林派樋口兼頼『熱田宮雀』刊行。貞享元年(1683年)に、『野ざらし紀行』の旅の松尾芭蕉を迎え、芭蕉門に入る。その後、『冬の日』五歌仙興行、『春の日』、『阿羅野』を刊行する。『阿羅野』には芭蕉が序を寄せた。貞享4年(1687年)頃、剃髪。当初は芭蕉と親しかったが、俳風の違いから徐々に反感を抱き、元禄6年(1693年)『曠野後集』、翌年『ひるねの種』を出版して蕉風を批判した。その後も芭蕉批判は止まず、芭蕉没後の元禄10年(1697年)『橋守』で芭蕉の句を批判している。だが、荷兮自身の句作も低調で、元禄12年(1699年)『青葛葉』を刊行して以降は、連歌師に転向した。享保元年(1716年)8月25日、69歳没。名古屋小川町法華寺に葬られる。法名は、信綆院汲清日玄。

代表句「こがらしに二日の月のふきちるか」から「凩の荷兮」と賞された[1]

俳風

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『曠野後集』の自序に「たゞいにしへをこそこひしたはるれ」と語るように、古典に憧れた素朴な古風を喜び、茶人的な趣味な世界に遊ぶ句風を特徴とする[1]。この古風を賞揚する姿勢が、常に新調を求める芭蕉とのすれ違いを生み、後の反目に繋がった。「古風を守って、新風を擢くでもなく、古風を捨てゝ、新風に徹するでもなく、依違逡巡の態度」とも評される[2]

脚注

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  1. ^ a b c 日本古典文学大辞典編集員会『日本古典文学大辞典 第1巻』岩波書店、1983年10月、605頁。 
  2. ^ 俳人荷兮の研究』1958年3月30日。doi:10.24729/00006753https://doi.org/10.24729/000067532020年3月6日閲覧