山岡豊一
日本の海軍軍人
山岡 豊一(やまおか とよかず、1869年1月17日(明治元年12月5日)- 1926年(大正15年)7月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。舞台俳優山岡如萍の兄[1]。
経歴
編集海軍兵学校17期。台湾総督府参謀兼副官などを経て、日露戦争では富士砲術長。1905年イギリスに出張。1910年「千早」兼「対馬」艦長となり、1911年に東宮武官、同年大佐。
その後「千代田」「矢矧」「扶桑」各艦長などを経て、1917年に少将。同年第7戦隊(1918年遣支艦隊、1919年第一遣外艦隊に改組)司令官に就任し、中国揚子江流域の要地(南京・上海・重慶・漢口等)の警備に当った。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[5]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[6]
脚注
編集- ^ 元米子市長野坂寛治著『米子界隈』269頁によれば、「足鹿代議士宅方へ曲る道の左に、小さい船溜りがあり、汽船取扱をしていたのは中尾回漕店跡である。中尾氏の本宅は、立町一丁目米子印刷所になっている。中尾氏の夫人か母堂か判然せぬが大変美しい人で、博労町の呉服商・中嶋氏から入嫁した人である。中尾夫人の妹さんが当時新派俳優米子市車尾の出身山岡如萍氏に嫁した。如萍氏は川上音二郎などの先輩で、当時大阪の元締めであった。後年海軍中将で雄名を走らせた山岡豊一氏の令弟である。」という
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第2509号「叙任及辞令」1920年12月11日。
- ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
- ^ 『官報』第5835号・付録「叙任及辞令」1902年12月13日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
参考文献
編集- 野坂寛治 『米子界隈』 1969年 269頁
- 『勝田ヶ丘の人物誌』』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年 360-361頁)