山内就綱
山内 就綱(やまうち なりつな)は、室町時代後期の武将・守護大名。後に六角氏当主となり近江国守護に任じられた。
時代 | 室町時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 佐々木小三郎 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利義高 |
氏族 | 六角氏(山内氏) |
父母 | 山内政綱 |
略歴
編集近江源氏佐々木氏嫡流・六角氏の重臣である山内政綱の子として誕生。
山内氏は六角氏の有力親族であり、山内信詮の代には、正平6年/観応2年(1351年)に六角氏頼が出奔すると、幼年だった六角義信を後見している。就綱の父・政綱も幼年の六角行高(高頼)を後見し、応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍について奮闘したが、延徳3年(1491年)8月から始まった10代将軍・足利義材による第二次六角征伐の際に投降し、誅伐された。同年12月には行高は甲賀を越えて伊勢国まで敗走しており、六角氏の当主と近江守護の座は六角政堯の養子・六角虎千代(高島越中守の子)に与えられた[1]。
明応2年(1493年)4月に細川政元が明応の政変を起こして足利義材を廃し、11代将軍足利義高(児御所)を擁立すると、同年10月には足利義材により補任された六角虎千代も廃され、就綱が六角氏惣領となり近江守護に任じられた[1][2]。しかし、この混乱に乗じて六角行高が蜂起する。就綱は延暦寺と共に六角行高と争ったが[2]、六角行高は美濃国守護代斎藤妙純の支援を受けており[2]、明応3年(1494年)12月には就綱は戦に破れ、近江坂本に退いた[3]。
明応4年(1495年)3月には就綱は近江を離れており、京に滞在している[3]。同年、足利義高は近江守護の地位を六角行高に与えた[1]。
脚注
編集出典
編集- 政家近衛『国立国会図書館デジタルコレクション 後法興院記. 下卷』平泉澄、1930年 。
- 尋尊 著、辻善之助 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大乗院寺社雑事記. 第10巻 尋尊大僧正記 144-162』三教書院、1931-1936 。
- 新谷和之 『シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻 近江六角氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-144-8