小畑忠良
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小畑 忠良(おばた ただよし、1893年(明治26年)3月16日 - 1977年(昭和52年)10月11日)は、日本の実業家、企画院・内務官僚、弁護士。企画院次長、大日本産業報国会理事長、大政翼賛会事務総長、官選愛知県知事、東海北陸地方総監。。
経歴
編集漢学者、小畑万治郎の六男として大阪府で生まれる。茨木中学校、第一高等学校を経て、1917年3月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。住友合資会社に入り総本店経理部に配属された。1923年2月から1925年3月まで欧米に商工業研究のため留学した。
1925年10月、住友総本店経理部第三課長となる。以後、同商工課長、住友電線製造所支配人、同取締役、同常務、同専務、住友合資会社参事、住友本社経理部長を歴任。
1940年8月、企画院次長に就任。さらに、大政翼賛会企画局長、大日本産業報国会理事長[1]、大政翼賛会事務総長などを務めた。1945年4月、愛知県知事に就任するが、同年6月に東海北陸地方総監に転じ終戦を迎える。同年10月、東海北陸地方総監が廃官となる。
1946年9月、弁護士登録を行う。公職追放となり、1951年8月に解除された。平和運動に参画し、大阪府知事選挙に革新系候補として三度出馬するが、いずれも次点で落選した。
親族
編集栄典
編集- 外国勲章佩用允許
- 1944年(昭和19年)7月20日 - 満州国国勢調査紀念章[4]
伝記
編集- 『小畑忠良を偲ぶ』小畑亮一、1985年。
- 小畑忠良『平和一筋の道 - 小畑忠良の後半生』小畑忠良追想記刊行会、1987年。
脚注
編集- ^ 機構改革、新たに常務理事制(『朝日新聞』昭和16年12月3日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p427 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 藤野勝太郞 (第8版 昭和3(1928)年7月 の情報)日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
- ^ 高碕達之助のアジア版「シューマン・プラン」構想―戦後日中経済交流の原型―
- ^ 「長谷川清外三十一名外国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504700