小日向
小日向(こひなた)は、東京都文京区の町名[5]。現行行政地名は小日向一丁目から小日向四丁目。郵便番号は112-0006[3]。
小日向 | |
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小日向二丁目 | |
北緯35度42分50.43秒 東経139度44分4.97秒 / 北緯35.7140083度 東経139.7347139度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 文京区 |
地域 | 小石川地域 |
面積 | |
• 合計 | 0.502 km2 |
人口 | |
• 合計 | 8,403人 |
• 密度 | 17,000人/km2 |
等時帯 | UTC 9 (日本標準時) |
郵便番号 |
112-0006[3] |
市外局番 | 03[4] |
ナンバープレート | 練馬 |
地理
編集小日向台という台地があり、坂が多い。坂には「切支丹坂」・「薬罐(やかん)坂」など江戸期からの名称がついている。閑静な住宅街。石川啄木・安部公房・横溝正史などの旧居があった。
旧:茗荷谷町付近はその地形の美しさから、「茗渓」(めいけい)という美称でも呼ばれていた。現在でも「茗渓」という名の付いた建物や企業を目にすることができる。ただ、代表的なものである「茗渓会館」は、かつてこの地にあった東京教育大学(筑波大学の前身)の同窓組織である「茗渓会」の会館なのでこの名がある。東京教育大学の前身である東京高等師範学校は、設立当初は今の御茶の水、すなわち茗渓(茗はお茶、渓は川)にあったので、この名が付いた。東京高師が茗荷谷近くの地に移転したのは、ずっと後のことなので、ここでの茗渓という名は茗荷谷に由来するものではない。
地元では「こびなた」と「ひ」の濁音で発音されていることが多く、行政上の表記/発音「こひなた」については異論も多い。1965年前後の住居表示実施に伴う調査の際「濁音なし」を採用したが、他方、学校名や町会名など古くからの「濁音あり」で呼んだり表記したりしている。また、小日向のすべての丁目は小日向神社の氏神地域に該当する。
地価
編集住宅地の地価は2017年(平成29年)1月1日の公示地価によれば小日向2-28-16の地点で65万1000円/m2となっている。
歴史
編集日頭郷
編集山岡浚明以来、平安時代の『和名類聚抄』所載の武蔵国豊島郡日頭(ひのと)郷を小日向と関連付ける説がある。
小日向氏
編集応永27年(1420年)5月9日「江戸名字書立」(熊野那智大社米良文書)に「こひなたとの(小日向殿)」とある。『小田原衆所領役帳』には小日向の地名および小日向弥三郎、小日向弾正の名が記載される。
江戸時代
編集江戸時代初期には農村で、代官野村彦太夫と町年寄三家樽屋藤左衛門、奈良屋市右衛門、喜多村彦右衛門支配、寛文12年(1672年)より代官支配となった。
明暦頃より市街化し、正徳3年(1713年)11ヶ町が町奉行支配に加わった。
- 小日向五軒町 - 元禄11年(1698年)西丸表六尺根本角兵衛等5人の大縄拝領地となった。
- 小日向三軒町 - 万治年間長兵衛等3人により成立。
- 小日向清水谷町 - 弓矢鎗奉行同心14人の拝領地となった。
- 小日向生智院前町
- 小日向水道町 - 明暦2年(1656年)成立。
- 小日向台町 - 小日向村鼠ヶ谷小松原に小日向新町として成立、元禄頃改称。
- 小日向東古川町 - 寛永元年成立。
- 小日向西古川町 - 寛文元年成立。
- 小日向八幡坂町
- 小日向松ヶ枝町 - 寛永3年成立。
- 小日向茗荷谷町
その後以下の門前町が成立した。
- 小日向第六天前町 - 承応以前に成立。
- 小日向清岸寺門前 - 寺名は清巌寺
- 小日向智願寺門前
- 小日向清光院門前
- 小日向竜興寺門前
- 小日向林泉寺門前
- 小日向金剛寺門前
- 小日向川添屋敷
明治時代
編集明治元年、以下の町丁に整理された。明治維新前には武家屋敷が多くあったが、維新後没落して空き家が増え、東京府は明治2年に触れを出して桑や茶を植えることを推奨した[6]。
- 小日向台町 - 明治2年小日向五軒町、小日向八幡坂町、明治5年賄組屋敷を合併。明治14年一~三丁目に分割。
- 小日向三軒町 - 明治2年小日向正智院前町を合併するも再分離、明治4年小日向西三軒町と改称、明治5年小石川薬園屋敷、武家地を合併。
- 小日向水道町 - 明治2年小日向川添屋敷、小日向智願寺門前、小日向清光院門前、小日向竜興寺門前、明治5年下総関宿藩久世家屋敷、寺地を合併。
- 小日向水道端一、二丁目 - 明治5年持筒組屋敷、武家地、寺地が合併して成立。
- 小日向武島町 - 明治5年武家地に成立。
- 小日向町 - 明治5年武家地に成立。
- 小日向東古川町
- 小日向西古川町
- 小日向第六天町 - 小日向第六天前町、小石川称名寺門前、相模荻野山中藩大久保家下屋敷、先手組屋敷が合併して成立。
- 小日向松ヶ枝町 - 明治5年武家地を合併。
- 小日向茗荷谷町 - 明治2年小日向林泉寺門前、明治5年武家地、寺地を合併。
明治11年に小石川区を属する。明治44年、小日向町、小日向台町、小日向水道町以外は小日向の冠称を外された。
住居表示
編集昭和41年(1966年)の住居表示により、旧来の小日向地域は小日向、水道、春日、音羽、関口の各一部となった。小日向一~四丁目は、茗荷谷町、小日向台町一、二丁目、清水谷町、三軒町の全部と、小日向台町三丁目、水道端二丁目、第六天町、小日向水道町、桜木町、音羽町五丁目、同心町、竹早町の各一部に成立した。
この時、区は読みから濁点を外し「こひなた」としたため、後に住民と軋轢を生んだ。
地名の由来
編集『江戸砂子』によれば、当地は鶴高日向守善仁寺の所領で、家が絶えたあと、「古日向」といっていたのがいつしかこの名になったという。鶴高日向は名主飯塚三四郎家の遠祖といい、小日向水道端鶴高山善仁寺の開基とされる。また、『十方庵遊歴雑記』は、大塚大慈寺(現在廃寺)が昔日向国にあり、徳川家康に従い当地に移転し、火災後大塚に移転したと伝わることから、この意味の「古日向」の可能性もあるとする。いずれにせよ「ひゅうが」と「ひなた」で読みが一致しないので、『御府内備考』以下後の考証家からは否定されている。
世帯数と人口
編集2019年(令和元年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
小日向一丁目 | 1,207世帯 | 2,444人 |
小日向二丁目 | 1,171世帯 | 2,670人 |
小日向三丁目 | 685世帯 | 1,357人 |
小日向四丁目 | 1,044世帯 | 1,932人 |
計 | 4,107世帯 | 8,403人 |
小・中学校の学区
編集区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7][8]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
小日向一丁目 | 1〜3番 4番7〜8号 4番11号 14~27番 |
文京区立小日向台町小学校 | 文京区立茗台中学校 |
その他 | 文京区立音羽中学校 | ||
小日向二丁目 | 全域 | ||
小日向三丁目 | 18番7~9号 | 文京区立関口台町小学校 | |
5〜17番 18番1〜6号 |
文京区立小日向台町小学校 | ||
その他 | 文京区立茗台中学校 | ||
小日向四丁目 | 1番 | 文京区立金富小学校 | |
2番 | 文京区立窪町小学校 | ||
その他 | 文京区立第一中学校 |
交通
編集鉄道
編集施設
編集著名な住民
編集- 安部公房
- 石川啄木
- 石原八束
- 伊藤彦造
- 伊藤正己
- 岩崎清七
- 太田水穂
- 乙竹岩造
- 小野英二郎
- 小野俊一
- 小野塚喜平次
- 片桐貞央
- 岸本能武太
- 黒川通軌
- 小池正晁
- 小池正彪
- 小池正直
- 佐藤紅緑
- 佐藤恒丸
- 佐藤伝蔵 (地質学者)
- サトウハチロー
- 澤宣元
- 志田鉀太郎
- 柴田桂太
- 志水小一郎
- 正田貞一郎
- 鈴木ヒロミツ
- 千本福隆
- 田河水泡
- 田川大吉郎
- 田口謙吉
- 田中阿歌麿
- 田中貢太郎
- 近松秋江
- 塚原周造
- 津軽承昭
- 富田常雄
- 十七世中村勘三郎
- 仁井田益太郎
- 新渡戸稲造
- 丹羽文雄
- 布川角左衛門
- 野口米次郎
- 延原謙
- 長谷川久一
- 長谷川芳之助
- 鳩山秀夫
- 浜口雄幸
- 平林初之輔
- 福田陸太郎
- 星島二郎
- 細川興治
- 堀口九萬一
- 堀口大學
- 堀秀彦
- 松石安治
- 松浦鎮次郎
- 松平容保
- 松野一夫
- 松本亦太郎
- 真山青果
- 水谷準
- 武者小路実篤
- 村井知至
- 森俊成
- 森岡常蔵
- 森下雨村
- 八杉龍一
- 山内義雄
- 横溝正史
- 吉田健一
- 和田三造
- 和田垣謙三
- 渡邉暁雄
- 渡辺温
参考資料
編集- 井沢宣子 2000 『東郷館の人びと―東京「小日向台」物語』 三一書房
脚注
編集- ^ “文京の統計 - 第51回文京の統計(平成30年)”. 文京区 (2019年1月1日). 2019年9月1日閲覧。
- ^ a b “文京区人口統計資料 - 町丁別世帯・人口(住民基本台帳)(毎月1日現在)”. 文京区 (2018年8月1日). 2019年9月1日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2019年9月1日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月5日閲覧。
- ^ 『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店、1991年再版、pp.989-990
- ^ 幼時体験を描く文学 : 夏目漱石・中勘助・豊子愷西槇偉, 文学部論鍍第105号 (2014)
- ^ “小学校 通学区域”. 文京区 (2014年11月5日). 2019年9月1日閲覧。
- ^ “中学校 通学区域”. 文京区 (2013年11月18日). 2019年9月1日閲覧。