小島 貞博(こじま さだひろ、1951年11月10日 - 2012年1月23日)は、日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手調教師

小島貞博
死の1週間前に撮影された写真
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道新冠郡新冠町
生年月日 (1951-11-10) 1951年11月10日
死没 (2012-01-23) 2012年1月23日(60歳没)
身長 165cm(2001年)
体重 54kg(2001年)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 戸山為夫1971 - 1993年
フリー(1993 - 2001年
初免許年 1971年3月1日
免許区分 平地
騎手引退日 2001年2月28日
重賞勝利 27勝
G1級勝利 5勝
通算勝利 4722戦495勝
調教師情報
初免許年 2001年2003年開業)
調教師引退日 2012年1月24日(死去)
重賞勝利 5勝
G1級勝利 1勝
通算勝利 1705戦137勝
経歴
所属 栗東T.C.(2001 - 2012年)
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騎手時代の主な騎乗馬に、1982年最優秀障害馬キングスポイント1992年クラシック二冠を制したミホノブルボン1994年優駿牝馬(オークス)優勝馬チョウカイキャロル、1995年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬タヤスツヨシなどがいる。騎手通算4722戦495勝。戦後デビューの騎手の内、平地障害それぞれの最高級競走である日本ダービーと中山大障害で2勝ずつを挙げている唯一の騎手である[注 1]

2003年より調教師として栗東トレーニングセンターに厩舎を開業。2005年の中山大障害に優勝し、同年の最優秀障害馬に選出されたテイエムドラゴンなどを管理した。

来歴

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少年期

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1951年北海道新冠町にサラリーマン家庭の長男として生まれる[1]。父親は放蕩癖があり家に寄りつかず、実母も早くに亡くしたため、弟妹の支えとなるため小学校中学年の頃には牛乳配達のアルバイトをして家計を助けていた[2]。中学校2年生のとき学校の近所にあった小笠原牧場に住み込んで働き始める[3]。同場の従業員に騎手になることを勧められていた[1]。中学3年生のとき、小笠原牧場と関係が深かった[2]実業家の谷水信夫が、谷水と協力関係にあった調教師の戸山為夫が騎手候補生を探していると小笠原に告げた。小笠原は小島ともう一人の従業員を連れて谷水が経営するカントリー牧場に赴くと、谷水は小島を候補に指名。これを受け、小島は1967年3月に京都競馬場の戸山の元へ移った[4]。翌4月には東京都にある馬事公苑の中央競馬騎手養成長期課程に第17期生として入所。同期生には東信二吉沢宗一などがいた[4]。この上京に際しては、事実上の兄弟子となる鶴留明雄が保護者代わりに付き添った[5][注 2]

騎手時代

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障害騎手として

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1971年に騎手免許を取得し、同年3月に戸山厩舎所属としてデビュー、同6月に初勝利を挙げた。デビューからしばらくは平地競走を中心に騎乗していたが、障害の名手であった鶴留が1978年に引退したことに伴い、障害での騎乗を増やしていった[6]。同年10月、戸山厩舎所属のフラストメア京都大障害(秋)を制し、重賞初勝利を挙げた。1982年には当時春と秋の2回施行されていた中山大障害キングスポイントテンポイントの全弟)で両方制するなど、障害競走で活躍を見せた。同馬を管理した小川佐助と小島には付き合いはなかったが、小川が管理したテンポイントの主戦騎手だった鹿戸明が小島との親交深く、鹿戸から「小島ならば気性難のキングスポイントを乗りこなせる」と小川に推薦したものだった[7]。この頃、小島は障害で4割近い勝率を残しており、後に「あの頃は障害では他人に負けないという気持ちがありました」と語っている[8]。しかし1986年末に障害練習中に落馬し、鎖骨骨折などの重傷を負った。これに際し、見舞いに訪れた戸山から「もう障害はいい。退院したら平場でやるんだ」と指示され、以後平地専業となった[9]

ミホノブルボン

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平地競走でもキタヤマザクラなどで重賞を制していたが、旧八大競走やGI級競走での目立った活躍はなかった。しかし1991年に戸山厩舎に入ったミホノブルボンの主戦騎手を任されると、同年末に同馬と朝日杯3歳ステークスを制し、GI初勝利を挙げた。逃げ戦法を武器としたミホノブルボンは血統的に短距離馬ではないかという評価が根強く、中・長距離で行われる翌1992年のクラシックに向けては常に距離不安が囁かれた。しかし小島は一貫して逃げの作戦を取り続け、皐月賞と日本ダービーの二冠を獲得。クラシック初優勝となった皐月賞では「ミホノブルボンがぼくを男にしてくれました」と述べ感泣した[10]

同年秋、小島とミホノブルボンは史上5頭目となるクラシック三冠を目標に菊花賞へ出走し、3000メートルという長距離に対するスタミナ面の不安が囁かれながらも1番人気の支持を受ける。しかし戦前から逃げ宣言をしていた松永幹夫騎乗のキョウエイボーガンに先手を奪われハイペースを追走する形となると、最後の直線で先頭に立ったもののライスシャワーに交わされての2着に終わり、三冠は成らなかった。戸山はこの競走について、自分のペースを守って逃げろという指示に反して2番手に控えた小島の騎乗に不満を表明し、小島はそれに対して次のように語った。

「ダービーも皐月賞も、他の馬の前を行って、それで負けたら仕方ない、と思っていたので気が楽だった。しかし、菊花賞ではキョウエイボーガンにハイペースで先に行かれたので、道中、ちょっと迷いが出てペースダウンした。先生は、そこが不満なのかもしれない。先生の理論は理解しているつもりだが、しかしまったくペースダウンせずに、そのまま競る形で走らせていたら、はたして2着があったのかどうか。自分はいまでも判断に迷っている」[11]

戸山はこの弁明に対し、「私にももちろんどっちが良かったのか分からない。しかし、思う存分、行かせてみたかった」としながらも、「しかし、血統的にはスプリンターでありマイラーであるミホノブルボンがそこまで走ったのだから、よしとしなければならないのかもしれない」とも述べた[11]。ミホノブルボンは次走ジャパンカップに向けての調整中骨膜炎を発症し、復帰できないまま引退に至り、これが生涯唯一の敗戦となった。

戸山の死去から引退まで

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鶴留明雄
森秀行

翌1993年の日本ダービー前日、に冒されていた戸山が肝不全で死去し、厩舎は解散となった。小島はこれに伴いフリーとなったものの、旧戸山厩舎所属馬の多くを引き継いだ弟弟子の森秀行が、開業数カ月後より小島と、同じく戸山厩舎所属だった小谷内秀夫を乗せない方針を打ち出した[12]ことなどもあり騎乗数が急激に減少し、一時は調教をつける馬さえいない状態となった[13][14]。小島は引退を考え始めたが、当時有力な調教師となっていた鶴留が状況を聞きつけて小島の支援を始め、鶴留厩舎に所属する有力馬の主戦騎手を任されるようになった[14]。戸山が常に小島と小谷内を乗せる方針だったこともあり、情実を切った森には批判の声も寄せられたが、森はこれに対し「僕が自分でやったことやから、何言われてもいいんです。書いてください。僕がそうしたのは、馬はあくまで馬主のものだということ。調教師のものじゃないんです。馬が僕のところへ来たのも馬主の意志だし、違う騎手に乗せてくれとも馬主から言われた。僕はそれに従ったまでです」と反論している[15]。作家の木村幸治は、「戸山はベッドから『俺の悪いところは真似るな』と言い続けた。馬主を激怒させてまで、自分の弟子である騎手の方を可愛がった戸山の生き方が、真似てはいけない生き方であると、森はおそらく冷静かつ合理的に判断したのである」とこれを評している[16]

その後、小島は1994年に鶴留厩舎所属のチョウカイキャロルに騎乗して優駿牝馬を制覇。競走後には「鶴留先生に恩返しができて良かった」と語った[17]。翌1995年には、やはり鶴留厩舎のタヤスツヨシで2度目の日本ダービー制覇を果たし、史上10人目のダービー2勝騎手となった[18]

以後は若手騎手の台頭などもあり、1997年からは一桁の勝利数を続けた[19]1996年から調教師免許試験の受験を始めており[20]2001年に調教師免許を取得し、騎手を引退した[18]。調教師試験の合格時の会見には戸山の未亡人も同席して喜びを共にした。騎手成績は通算4722戦495勝。そのうち重賞はG1競走5勝を含む27勝だった[21][18]

調教師時代 - 死まで

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免許取得当時は管理馬房に空きがなく、技術調教師[注 3]として2年過ごした後、2003年に栗東トレーニングセンターに厩舎を開業した。

初年度から15勝を挙げる順調な滑り出しを見せ、2005年には娘婿の田嶋翔が手綱を取るテイエムチュラサンアイビスサマーダッシュに優勝、調教師として重賞初勝利を挙げた。さらに年末にはテイエムドラゴン中山大障害に優勝し、騎手と調教師両方での中山大障害制覇となった。テイエムドラゴンは同年の最優秀障害馬に選出された。

2012年1月23日午後5時50分ごろ、自厩舎2階で意識を失っているところを発見され、救急車で搬送されるも滋賀県栗東市内の病院で死亡が確認された[22]。60歳没。自殺だった[23]。親族が負った多額の借金を肩代わりし[24]、従業員への給与支払いが遅れるなど厩舎の経営状態が逼迫していたとされ[25]、トレーニングセンター内では翌日に控えていた調教師免許更新ができないのではないかと噂されていた[25]。小島の死去に伴い、厩舎所属馬は義兄に当たる湯窪幸雄に引き継がれた[25]。調教師としての通算成績は1705戦137勝、うちGI級競走1勝を含む重賞5勝であった[21]

戸山との師弟関係

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師匠の戸山は、小島を厩舎に受け入れた際の印象を、「子供の時から父親が仕事の関係でいつも留守がちだったんで、父親のあたたかみを知らずにいたと感じた」といい、「私が父親の代わりとなって、あたたかい人生を歩ませてやりたいと思ったんです」と語っている[26]。その言葉通り、貞博と弟弟子の小谷内秀夫は厳しい師弟関係の傍らで、戸山から「本当の父親以上の愛情をもって接していただいた」と、その死後出版された著書『鍛えて最強馬をつくる』に寄せた[27]

また戸山は、「調教師というのは、少なくとも師匠と言われるからには、人を育てることも大きな仕事である[28]」という信念に基づき、必ずしも成績上位ではない両者を起用し続け、馬主に対しても、馬の預託に際しては両者を専属騎手とする契約を結ばせていた[29]。小島と小谷内は先の寄稿において、戸山に対する感謝の念とともに「師匠は『それがオレの信念だ』と当然のような顔をしていたが、私たちのレースぶりを見て、心の中で歯ぎしりすることも多かったのではないかと思う。私たちがそれに十分報いることができなかったのが残念である[27]」と反省を述べた。一方、戸山による小島の評価は「人気から比べると技術の方が上。人気よりも腕があるという言い方よりも、腕よりも人気がない」というもので、「小島の成績が上がらないのは、直言居士で仲間受けが悪い自分の弟子で、避けられているため」との見解を示し、「私は小島に、スマンコッチャっていう気持ちがあります」と吐露していた[30]

戸山の死去当日、小島は日本ダービー出走のドージマムテキに騎乗するため東京競馬場におり、訃報に接して「騎乗を辞退して、先生の元に行かせて欲しい」とJRA職員に嘆願したが、「レースに騎乗することが先生への供養になる」と説得され、そのまま東京にとどまったというエピソードがある[31]。小島はのちに騎手生活のなかで最もショックだった出来事として戸山の死を挙げた[20]

小島は調教師転身に当たり、「馬が走るのはもちろんですけど、人づくりの面もいつも頭に入れておきたいですね。余裕ができたら、騎手を育ててみたいと思っています[32]」と語り、開業後は自厩舎に所属した田嶋を積極的に起用し続けた。

騎手成績

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区分 1着 2着 3着 4着以下 騎乗数 勝率 連対率
1971年 平地 4 9 12 89 114 .035 .114
障害 0 0 1 4 5 .000 .000
4 9 13 93 119 .034 .109
1972年 平地 17 25 24 120 186 .091 .226
障害 0 2 3 5 10 .000 .200
17 27 27 125 196 .087 .224
1973年 平地 24 25 24 108 181 .133 .271
障害 0 0 0 3 3 .000 .000
24 25 24 111 184 .130 .266
1974年 平地 16 22 23 125 186 .086 .204
障害 0 0 0 8 8 .000 .000
16 22 23 133 194 .082 .196
1975年 平地 11 9 6 99 125 .088 .160
障害 0 1 1 1 3 .000 .333
11 10 7 100 128 .086 .164
1976年 平地 11 7 12 90 120 .092 .150
障害 2 2 6 9 19 .105 .211
13 9 18 99 139 .094 .158
1977年 平地 10 9 17 67 103 .097 .184
障害 4 6 2 12 24 .167 .417
14 15 19 79 127 .110 .228
1978年 平地 10 14 7 80 111 .090 .216
障害 10 12 8 17 47 .213 .468
20 26 15 97 158 .126 .291
1979年 平地 8 2 6 79 95 .084 .105
障害 6 7 4 15 32 .188 .406
14 9 10 94 127 .110 .181
1980年 平地 15 9 10 100 134 .112 .179
障害 3 2 5 27 37 .081 .135
18 11 15 127 171 .105 .169
1981年 平地 13 3 10 76 102 .127 .157
障害 11 8 3 9 31 .355 .613
24 11 13 85 133 .180 .263
1982年 平地 10 10 11 114 145 .069 .138
障害 14 4 0 20 38 .368 .474
24 14 11 134 183 .131 .207
1983年 平地 7 11 10 88 116 .060 .155
障害 5 4 1 11 21 .238 .429
12 15 11 99 137 .087 .197
1984年 平地 11 13 7 89 120 .092 .200
障害 5 4 6 13 28 .179 .321
16 17 13 102 148 .108 .223
1985年 平地 11 14 15 102 142 .078 .176
障害 3 4 1 7 15 .200 .467
14 18 16 109 157 .089 .204
1986年 平地 19 18 15 140 192 .099 .193
障害 5 1 1 5 12 .417 .500
24 19 16 145 202 .119 .213
1987年 平地 19 15 13 88 135 .141 .252
1988年 平地 24 14 25 170 233 .103 .163
1989年 平地 23 38 32 152 245 .094 .249
1990年 平地 18 15 23 126 182 .099 .181
1991年 平地 24 21 18 119 182 .132 .247
1992年 平地 31 15 12 105 163 .190 .282
1993年 平地 15 21 18 127 181 .083 .199
1994年 平地 23 13 12 106 154 .149 .234
1995年 平地 13 7 14 132 166 .078 .120
1996年 平地 25 20 17 140 202 .124 .222
1997年 平地 7 17 15 125 164 .043 .146
1998年 平地 3 4 4 66 77 .039 .091
1999年 平地 2 7 6 67 82 .024 .110
2000年 平地 2 4 4 38 48 .042 .125
2001年 平地 1 1 0 1 3 .333 .667
平地 427 412 422 3128 4389 .097 .191
障害 68 57 42 166 333 .204 .375
総計 495 469 464 3294 4722 .105 .204
日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1971年3月6日 1回阪神3日1R - タニノペルシャン 11頭 - 7着
初勝利 1971年6月19日 3回中京1日2R - タニノラパス - - 1着
重賞初騎乗 1971年6月6日 3回阪神8日11R 阪急杯 タニノモスボロー 24頭 14 18着
重賞初勝利 1978年10月14日 4回京都3日10R 京都大障害(秋) フラストメア 7頭 3 1着
GI級初騎乗 1972年12月10日 5回阪神4日11R 阪神3歳ステークス チチカカ 15頭 15 14着
GI初勝利 1991年12月8日 5回中山4日11R 朝日杯3歳ステークス ミホノブルボン 8頭 1 1着

主な騎乗馬

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チョウキャイキャロルに騎乗する小島(1995年宝塚記念

※括弧内は小島騎乗時の優勝重賞競走。太字はGI級競走。

調教師成績

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通算成績 1着 2着 3着 4着以下 出走回数 勝率 連対率
平地 125 122 102 1,284 1,633 .076 .151
障害 12 8 5 47 72 .166 .277
137 130 107 1,331 1,705 .080 .156
日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初出走 2003年3月1日 1回阪神1日10R 須磨特別 ミスターサウスポー 16頭 11 15着
初勝利 2003年3月23日 1回中京6日3R 3歳未勝利 セルリアングルーヴ 13頭 8 1着
重賞初出走 2003年3月9日 1回中京2日11R 中京記念 グランドシンザン 16頭 14 9着
重賞初勝利 2005年8月21日 3回新潟4日11R アイビスサマーダッシュ テイエムチュラサン 13頭 7 1着
GI初出走 2004年12月5日 5回阪神2日11R 阪神ジュベナイルフィリーズ テイエムチュラサン 18頭 14 14着
GI初勝利 2005年12月24日 5回中山7日10R 中山大障害 テイエムドラゴン 14頭 2 1着

主な管理馬

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親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 他に1934年デビューの岩下密政が2勝ずつを挙げている。ダービー・大障害を両方制している騎手は、小島、岩下の他に古山良司伊藤竹男加賀武見根本康広がいる。
  2. ^ 鶴留は当時戸山厩舎に所属していたが、師匠は武田文吾であり、厳密には兄弟子ではなかった。
  3. ^ 調教師として開業する前の研修中の状態。

出典

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  1. ^ a b 木村(1998)104頁。
  2. ^ a b 井口(2004)74頁。
  3. ^ 井口(2004)75頁。
  4. ^ a b 井口(2004)77-78頁。
  5. ^ 木村(1998)104-105頁。
  6. ^ 木村(1998)105頁。
  7. ^ 井口(2004)85頁。
  8. ^ 優駿2001年4月号 71頁。
  9. ^ 木村(1998)106頁。
  10. ^ 井口(2004)91頁。
  11. ^ a b 戸山(1993)32頁。
  12. ^ 井口(2004)101頁。
  13. ^ 井口(2003)63頁。
  14. ^ a b 木村(1998)107-108頁。
  15. ^ 木村(1997)218頁。
  16. ^ 木村(1997)219頁。
  17. ^ 『優駿』1994年7月号 139頁。
  18. ^ a b c 小島貞博師が自殺か 60歳ダービー2勝”. nikkansports.com. 2022年5月4日閲覧。
  19. ^ 小島貞博の年度別成績 | 騎手データ”. netkeiba.com. 2022年5月4日閲覧。
  20. ^ a b 『優駿』2001年4月号 68頁。
  21. ^ a b 小島貞博調教師が死去 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年5月4日閲覧。
  22. ^ 石川勝義 (2012年1月23日). “競馬:調教師で元騎手の小島貞博さん死亡 自殺か”. 毎日新聞. http://mainichi.jp/select/jiken/news/20120124k0000m040098000c.html 2012年1月24日閲覧。 
  23. ^ 時事ドットコム:小島調教師は自殺=競馬
  24. ^ “小島貞調教師、自殺の真相…プレッシャーと経済的苦境”. Gallop Online. (2012年1月24日). http://gallop.sanspo.com/gallop/headline/news/120124/tpc12012415340006-n1.html 2012年1月25日閲覧。 
  25. ^ a b c “急死・小島貞博調教師、自殺だった”. デイリースポーツonline. (2012年1月23日). http://www.daily.co.jp/newsflash/2012/01/25/0004767246.shtml 2012年1月24日閲覧。 
  26. ^ 『優駿』1992年6月号 35頁。
  27. ^ a b 戸山(1993)3頁。
  28. ^ 戸山(1993)22頁。
  29. ^ 戸山(1993)70頁。
  30. ^ 『優駿』1992年6月号 36頁。
  31. ^ 井口(1998)100頁。
  32. ^ 『優駿』2001年4月号 71頁。
  33. ^ JRA公式サイトの引退騎手名鑑 小島貞博(https://www.jra.go.jp/datafile/meikan/jretirement.html)に基づく

参考文献

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  • 戸山為夫『鍛えて最強馬を作る - 「ミホノブルボン」はなぜ名馬になれたのか』(かんき出版、1993年) ISBN 4761253975
  • 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 4896912926
  • 木村幸治『騎手物語』(洋泉社、1998年) ISBN 4896912985
  • 井口民樹『瀬戸際の勝負師 - 騎手たちはそのときをどう生きたか』(VIENT、2004年)ISBN 4768488838
  • 『優駿』1992年6月号(日本中央競馬会)
    • 鶴木遵「ダービー・主役への22年 小島貞博」
  • 『優駿』2001年4月号(日本中央競馬会)
    • 「杉本清の競馬談義 - ゲスト 小島貞博調教師」

関連項目

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