小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年明治11年9月2日)[1][出典無効] - 1949年昭和24年)11月23日)は、日露戦争から戦間期にかけて活躍した大日本帝国海軍軍人。海兵27期海大甲種7期

水雷畑を歩み、海軍大学校教官、海軍水雷学校教頭など教育に携わり、軍令部参謀、海軍艦政本部部長、横須賀海軍工廠長などを歴任した。最終階級は海軍中将1905年(明治38年)の日本海海戦では第二艦隊浅間分隊長

略歴

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神奈川県出身。静岡県尋常中学校を経て[2]1896年(明治29年)、海軍兵学校27期)入校[1][出典無効]1899年(明治32年)12月16日卒業[1][出典無効]。同日、海軍少尉候補生、比叡乗組。1900年(明治33年)、千代田乗組[1][出典無効]

1901年(明治34年)、海軍少尉、横須賀水雷団1水雷艇隊附[1][出典無効]1902年(明治35年)朝日乗組[1][出典無効]1902年(明治35年)、海軍中尉[1][出典無効]1903年(明治36年)、浅間乗組[1][出典無効]1904年(明治37年)、海軍大尉[1][出典無効]1905年(明治38年)、舞鶴海兵団分隊長[1][出典無効]1906年(明治39年)2月、海軍省出仕。6月、音羽分隊長、8月、姉川分隊長、11月、龍田水雷長/分隊長[1][出典無効]1907年(明治40年)、海軍水雷学校教官/分隊長[1][出典無効]

1908年(明治41年)、海軍大学校甲種学生[1][出典無効]1909年(明治42年)、海軍少佐[1][出典無効]。12月、香取水雷長/分隊長[1][出典無効]1910年(明治43年)、浅間水雷長/分隊長[1][出典無効]1911年(明治44年)、海軍教育本部[1][出典無効]1913年(大正2年)、呉水雷隊参謀[1][出典無効]1914年(大正3年)、海軍大学校教官[1][出典無効]。8月、海軍大学校教官/軍令部出仕。12月、海軍中佐[1][出典無効]1917年(大正6年)、軍務局局員[1][出典無効]1918年(大正7年)、海軍大佐、矢矧艦長[1][出典無効]1919年(大正8年)、周防艦長。12月、海軍水雷学校教頭[1][出典無効]1922年(大正11年)、軍令部参謀/国連空軍代表随員[1][出典無効]1923年(大正12年)、帰朝。6月、海軍艦政本部第二部長[1][出典無効]

1923年12月、海軍少将[1][出典無効]1926年(大正15年)、広工廠長。1927年(昭和2年)、横須賀工廠[1][出典無効]。12月、海軍中将、軍令部出仕[1][出典無効]。同月、待命、予備役[1][出典無効]1940年(昭和15年)、後備役[1][出典無効]1941年(昭和16年)、予備役[1][出典無効]1945年(昭和20年)、退役[1][出典無効]

海軍兵学校(27期)同期に末次信正中村良三ら。海軍大学校(甲種7期)同期に末次信正、四竈孝輔犬塚太郎ら。

家族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 海兵27期 小倉嘉明
  2. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 43頁。
  3. ^ a b 小倉嘉明 人事興信録 名古屋大学

関連項目

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外部リンク

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