尊光入道親王
江戸時代の法親王
(尊光法親王から転送)
尊光入道親王(そんこう にゅうどうしんのう[1]、正保2年9月29日(1645年11月17日)- 延宝8年1月6日(1680年2月6日))は、 江戸時代の入道親王。知恩院第2代宮門主。幼名は栄宮(よしのみや)、諱は良賢(よしかた)、法名は尊光。後水尾天皇の第十二皇子、母は権大納言四辻季継女典侍四辻継子。
尊光入道親王 | |
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続柄 | 後水尾天皇第十二皇子 |
全名 | 栄宮(幼名)、良賢(諱)、尊光(法名) |
身位 | 親王 → 入道親王 |
出生 |
正保2年9月29日(1645年11月17日) |
死去 |
延宝8年1月6日(1680年2月6日) |
父親 | 後水尾天皇 |
母親 | 典侍 四辻継子 |
役職 | 知恩院第2代宮門主 |
親王宣下を蒙った後に出家しているので、身位は入道親王が正しいが、これを出家後に親王宣下を蒙った法親王と混同し、間違って「尊光法親王」とした文献も多く存在している。
来歴
編集慶安4年(1651年)2月に三代将軍徳川家光の猶子となり知恩院に入る。承応3年(1654年)4月6日に後光明天皇から親王宣下を蒙り良賢親王(よしかたしんのう)を名乗る。明暦2年(1656年)5月8日知恩院第35世門主勝譽旧応を戒師として入室得度し、同年7月1日改衣。寛文2年(1662年)研学のために関東へ下向し、増上寺第25世法主頓譽智哲より受法。寛文6年(1666年)8月11日には後水尾上皇に法然の「一枚起請文」を講じている。延宝7年(1679年)11月10日二品に叙せられた。戒名は無量威院宮大蓮社超譽勝阿神竜尊光大和尚。
出典
編集- ^ 「尊光入道親王」、デジタル版 日本人名大辞典 Plus、コトバンク(2022年7月28日閲覧)
参考文献
編集- 中井真孝『知恩院門跡初代良純法親王及び二代尊光法親王について —『東山門室記録』を中心に —』、「佛教文化研究」第60号 pp51–72 所収(論文)
- 江島孝導『知恩院宮門跡御殿の組織 — 第二代尊光法親王時代について —』(論文)