宮原義照
日本の安土桃山時代~江戸時代初期の武将。鎌倉公方足利氏流宮原義勝(関東管領足利晴直長男)長男で、上総宮原氏2代当主(後に下野足利郡内1040石知行)
宮原 義照(みやはら よしてる、天正4年(1576年) − 慶長7年1月10日(1602年2月3日))は、戦国武将、江戸時代初期の旗本。本姓は源氏。家系は足利氏の流れで鎌倉公方足利基氏の血筋である。宮原義勝の長男。母は真里谷信政の娘。通称は勘五郎。祖父は足利晴直(上杉憲寛)である。『寛政重修諸家譜』によれば、義照から宮原姓を称したという。
天正18年(1590年)、徳川家康に御目見をする。下野国足利郡内において1040石を与えられて、諸役免除を申し渡される。天正19年(1591年)、足利郡駒場村に居所を移す。それまでは上総国宮原を居所にしていたようである。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際し徳川秀忠に従い、上田城攻めに参加する。慶長7年(1602年)1月10日死去、27歳。法号は照公。
正妻、子女ともにいない。実弟の義久を養子に迎えた。