定公 (鄭)
定公(ていこう、生年不詳 - 紀元前514年)は、春秋時代の鄭の君主。姓は姫、名は寧。
定公 姫寧 | |
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鄭 | |
18代公(周制による爵位は伯) | |
王朝 | 鄭 |
在位期間 | 紀元前530年 - 紀元前514年 |
都城 | 新鄭 |
姓・諱 | 姫寧 |
諡号 | 定公 |
没年 | 紀元前514年 |
父 | 簡公 |
生涯
編集鄭の簡公の子として生まれた[1]。紀元前530年3月、簡公が死去する[2]と、定公は後を嗣いで鄭公として即位した。秋、定公は晋の昭公に朝見した。紀元前529年、楚の平王が即位すると、霊王の時代に奪った土地を鄭に返還した[1]。定公は晋・斉・魯・宋・衛などの諸侯と平丘で会合した[3]。紀元前526年、晋の韓起(韓宣子)が鄭を訪れ、子産と会談した[4]。紀元前524年、鄭で火災が起こった。子産が火災に遭った社を再建した[5]。
紀元前522年、楚の太子建が鄭に亡命してきた。この年、子産が死去し、游吉が執政となった[6]。紀元前520年、太子建が晋と共謀して鄭を襲おうと謀ったため、鄭は太子建を殺し、建の子の勝は伍子胥に連れられて呉に逃れた[7]。紀元前517年、定公は晋に赴き、士鞅と会談した[8]。紀元前514年4月丙戌、定公は死去し[9]、子の献公が鄭公として即位した[1]。
脚注
編集- ^ a b c 『史記』鄭世家
- ^ 『春秋左氏伝』昭公12年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公13年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公16年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公18年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公20年
- ^ 『史記』鄭世家による。同書十二諸侯年表は楚建が反乱を起こして殺されたのを鄭の定公11年、すなわち紀元前519年のこととする。『春秋左氏伝』哀公16年にもこの経緯はみえるが、年期は明らかではない。
- ^ 『春秋左氏伝』昭公24年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公28年
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