朝香孚彦
(孚彦王から転送)
朝香 孚彦(あさか たかひこ、1912年〈大正元年〉10月8日 - 1994年〈平成6年〉5月6日)、または孚彦王(たかひこおう)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。朝香宮鳩彦王の第1王子、朝香宮第2代当主。1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱。陸軍軍人として、皇族として初めて操縦桿を握った。士候45期、陸大53。最終階級は陸軍中佐。第124代天皇・昭和天皇は従兄、第125代天皇・明仁は従甥、第126代天皇・徳仁は従姪孫にあたる。
朝香 孚彦 (孚彦王) | |
---|---|
朝香宮 | |
続柄 | |
全名 | 朝香 孚彦(あさか たかひこ) |
身位 | 王 →(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下 →(皇籍離脱) |
出生 |
1912年10月8日 日本 東京府 |
死去 |
1994年5月6日(81歳没) |
埋葬 | 日本・東京都文京区、豊島岡墓地 |
配偶者 | 藤堂千賀子 |
子女 |
鈴木冨久子(冨久子女王) 誠彦王 坂本美仍子(美仍子女王) |
父親 | 朝香宮鳩彦王 |
母親 | 鳩彦王妃允子内親王 |
役職 | 陸軍中佐 |
生涯
編集1912年(大正元年)10月8日午前5時5分、朝香宮鳩彦王と同妃允子内親王(第122代明治天皇の第8皇女)の第1王子として生を受ける。御七夜の14日に「孚彦(たかひこ)」と命名。陸軍大学校卒業後、航空兵科に異動し、陸軍航空本部教育部部員、第51航空師団参謀等をつとめた。1938年(昭和13年)12月16日、伯爵藤堂高紹令嬢・千賀子と結婚[1]。1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第11条1項により、妻・千賀子妃や家族と共に皇籍を離脱し、以後は「朝香 孚彦(あさか たかひこ)」と名乗る。戦後は、公職追放を経て[2]、聴講生として東京大学で航空工学を学び、1952年(昭和27年)には日本航空運航部に就職。この間、1950年(昭和25年)に妻・千賀子が、自らの結核の快癒を願ってカルメル会に入り、カトリック信者となったのを機に家族全員で受洗。1952年(昭和27年)12月26日に千賀子が病死した後も敬虔なクリスチャンであり続け、75歳になってからも愛車のBMWで足繁く東京都世田谷区のカトリック上野毛教会の早朝ミサに通う姿が『週刊読売』1988年(昭和63年)5月29日号に報じられた。1994年(平成6年)5月6日、逝去。81歳没。
年譜
編集栄典
編集血縁
編集明治天皇 (1852-1912) 在位 1867-1912 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正天皇 (1879-1926) 在位 1912-1926 | 竹田宮恒久王 (1882-1919) | 昌子内親王 (1888-1940) | 北白川宮成久王 (1887-1923) | 房子内親王 (1890-1974) | 朝香宮鳩彦王 (1887-1981) | 允子内親王 (1891-1933) | 東久邇宮稔彦王 (1887-1990) | 聡子内親王 (1896-1978) | 昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | 竹田恒徳 (1909-1992) | 永久王 (1910-1940) | 朝香孚彦 (1912-1994) | 盛厚王 (1916-1969) | 成子内親王 (1925-1961) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上皇 (明仁) (1933-) 在位 1989-2019 | 竹田恒正 (1940-) | 北白川道久 (1937-2018) | 朝香誠彦 (1943-) | 東久邇信彦 (1945-2019) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今上天皇 (徳仁) (1960-) 在位 2019- | 竹田家 | (男系断絶) | 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献
編集- 上法快男監修,外山操編『陸海軍将官人事総覧』陸軍篇(芙蓉書房、昭和56年)
脚注
編集注釈
編集- ^ 戦後、1947年(昭和22年)父に従い皇籍離脱。朝香冨久子となり、女子美術大学に学ぶ。皇太子妃の候補ともなった。旧盛岡藩主南部家の南部利久に嫁いで離婚。のち、日清製粉に勤務する一般人と再婚し、二児を儲けた。また、SF同人誌『宇宙塵』に参加し、ペンネーム「美苑ふう」(ディエンビエンフーの戦いに由来)あるいは「南部ふう」名義で小説を発表した(『日本SF・原点への招待「宇宙塵」傑作選2』講談社に収録)。同誌には「朝香冨久子」「南部冨久子」名義でカットを発表したこともある。2009年2月19日、心不全により67歳で死去。[12]
- ^ あさか・ともひこ。東京藝術大学音楽学部でチェロを専攻した後、CBSソニーに勤務。東京都庭園美術館館長特別顧問を務める。
- ^ 岐阜県武儀郡美濃町で誕生したことから「みのこ」と名付けられる。のち日新製糖勤務の一般人と結婚し、三児を儲ける。
出典
編集- ^ “『親王・諸王略傳』 孚[孚彦]”. nss.o.oo7.jp. 2023年1月5日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』1947年10月17日二面。
- ^ “彙報”. 官報 667: 603. (1929-03-23).
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、40頁。
- ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
- ^ 『官報』第2634号「叙任及辞令」1935年10月11日。
- ^ “資料検索 - 南山大学 蔵書検索 (OPAC)”. 南山大学ライネルス中央図書館. 2024年4月2日閲覧。
- ^ 『官報』第849号「叙任及辞令」1929年10月28日。p.672
- ^ 『官報』第2043号「叙任及辞令」1933年10月21日。p.497
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第5048号「叙任及辞令」1943年11月9日。p.197
- ^ 『週刊新潮』2009年4月2日号より。
- ^ a b 「FRIDAY」1989年1月26日増刊号p36-37
外部リンク
編集- ウィキメディア・コモンズには、朝香孚彦に関するカテゴリがあります。
- 朝香宮家御家族の写真アルバム