天野雄光
日本の安土桃山時代~江戸時代初期の武将。織田禅正忠家(織田信雄)・豊臣家・徳川家の家臣。江戸幕府旗本(2000石→改易)。伊勢長島城主を勤めた
天野 雄光(あまの かつみつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。初名は景俊(かげとし)。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不詳[要出典] |
死没 | 慶長14年11月21日(1609年12月17日) |
改名 | 景俊、雄光 |
別名 | 佐々右衛門、道西(号) |
官位 | 従五位下周防守 |
主君 | 織田信雄、豊臣秀次、秀吉、徳川家康 |
妻 | 北畠具教の娘 |
子 | 雄景、雄得、村越光室 |
生涯
編集当初は織田信雄に2万石余で仕え、伊勢長島城番を務めた。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは徳川家康軍に加わって案内役となり、羽黒の戦いでは酒井忠次隊に属して羽柴勢と戦った。同年の蟹江城合戦では前哨戦で戦功があった。天正18年(1590年)信雄が改易となると豊臣氏に仕え、文禄元年(1592年)には豊臣秀次麾下として一時的に長島城主に再任されている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いのころからは徳川氏の傘下に入り、戦後は2,000石を与えられた。ところが、慶長12年(1607年)6月24日、織田有楽嫡男の頼長、美濃清水藩主の稲葉通重、山城御牧藩主の津田高勝らと共に京都の祇園に赴いたとき、茶屋四郎次郎もしくは後藤長乗の女房を始めとする富商の婦女7・8人を強引に茶店に引き入れて酒を飲ませる、後藤の従者を木に縛り付け、刀を抜いて斬り捨てると脅す等の乱行を起こしたため、幕命により改易となり、2年後に蟄居先の鎌倉で卒した。