大関増勤
日本の江戸時代後期~明治時代後期の大名・知藩事・子爵。丹波山家藩13代藩主谷衛滋庶子で、下野黒羽藩15代藩主大関増裕養子。黒羽藩16代藩主。正三位勲三等瑞宝章
大関 増勤(おおぜき ますとし)は、江戸時代末期の大名。下野国黒羽藩16代(最後)の藩主。明治維新後は子爵。
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 嘉永2年1月5日(1849年1月28日)[1] |
死没 | 明治38年(1905年)8月9日 |
改名 | 泰次郎(幼名)→増勤 |
戒名 | 賢忠院殿博雄為山大居士 |
墓所 | 栃木県大田原市の大雄寺 |
官位 |
従五位下、美作守、正五位、従四位 正四位、従三位、正三位、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 下野黒羽藩主 |
氏族 | 谷氏(石岡松平家)→大関氏 |
父母 |
父:谷衛滋、養父:大関増裕 実父は松平頼功(石岡松平家)とする説もある |
兄弟 |
谷衛滋の子の場合:大関増勤、谷寿衛 松平頼功の子の場合:片桐貞篤、本多副元、大関増勤 |
妻 |
正室:鍋島直与娘 継室:生駒親敬長女・年子 妾:サダ、ウメ、寿子、燐子、敏子、長田タメ、堀江マサ |
子 | 増輝(長男)、平野長祥後妻 |
来歴
編集嘉永2年(1849年)1月5日[1]、丹波国山家藩主・谷衛滋の庶子として生まれる。常陸府中藩主・松平頼説の三男・松平頼功(衛滋の実兄)の三男とする説もある。慶応3年(1867年)12月の黒羽藩15代藩主・大関増裕の死去により、慶応4年(1868年)3月5日に養子として家督を相続する。
戊辰戦争では新政府に恭順した。11月21日に従五位下・美作守に叙位任官する。明治2年(1869年)6月2日、新政府より永世賞典禄として1万5000石を与えられる。6月22日には版籍奉還により黒羽藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で知藩事を免職され、8月15日に東京へ移った。
明治5年(1872年)2月にアメリカへ留学し、明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)に大講義に任じられた。
明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵[2]。明治18年(1885年)7月12日に勲四等、明治20年(1887年)12月26日に正五位、明治25年(1892年)に従四位、明治30年(1897年)7月22日に正四位、明治36年(1903年)6月30日に従三位、明治38年(1905年)8月8日に正三位・勲三等に叙され、瑞宝章を授与される。
8月9日に東京帝国大学病院で死去した。享年57。
家族
編集父母
妻
側室
- サダ
- ウメ
- 寿子
- 燐子
- 敏子
- 長田タメ
- 堀江マサ
子女
栄典
編集脚注
編集- ^ a b デジタル版 日本人名大辞典 Plusでは嘉永5年(1852年)1月5日生まれ。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『官報』第6634号「叙任及辞令」1905年8月10日。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (黒羽)大関家初代 1884年 - 1905年 |
次代 大関増輝 |