大石無人
大石無人(おおいし むじん、おおいし むにん[1]、 寛永4年(1627年) - 正徳2年5月5日(1712年6月8日))は、江戸時代前期の武士。名は良総(よしふさ)または信安[2]。他の通称に五左衛門(ござえもん)。大石良雄は無人のいとこ孫、赤穂義士大石信清と討ち入り不参加の大石信興兄弟は無人の甥にあたる。
生涯
編集赤穂藩浅野氏の家臣・大石信云の長男として生まれた。弟に大石信澄(赤穂浪士の大石信清の父)がいる。しかし、正保2年(1645年)に父が隠居した際に家督を継いだのは弟の信澄であった。良総はしばらく赤穂藩に仕えたものの、大石良欽によると、良総は家老(実名の記載なし)から役目を言いつけられ「成就の際は重臣に取り立てる」と言い含められたのにも拘わらず、事後に約束を反故にされた事に腹を立て、寛文6年(1666年)に藩を離れた。元禄5年(1692年)に最初の妻・奈津(良麿の生母)に先立たれる。
長男の良麿(郷右衛門)は元禄6年(1693年)、陸奥国弘前藩津軽家に仕え弘前大石氏[3]、次男の良穀(三平)の子孫は讃岐大石氏と称される。良麿は学問好きで礼儀正しいが、良穀は気性が荒く町の剣道場にも通い、父の良総にも物をぶつける程の癇癪持ちだった。 同年、江戸で柳島町の借家に入り、優婆塞として禅宗に帰依、頭を丸めて無人と号す。
元禄8年(1695年)6月、68歳の無人は二回り年下の赤穂藩足軽伍長の娘・明栄と所帯を持つ(良麿・良穀の継母)。
元禄14年(1701年)、赤穂藩主・浅野長矩の刃傷事件後に、吉良邸討ち入りを計画する甥の大石信清をはじめとする赤穂浪士たちへ生活資金の援助をした(無人宛に信清が書いた手紙には「自分は哀れな独り身にて衣服の着替えもなく、寒くてふるえている。不憫と思って金子を融通してほしい」等と書かれている。[4])。また、赤穂浪士の装束等の遺品を預かったとされる。
討ち入りの際には無人は次男の大石良穀と共に邸外の見張りについていたともいわれている。弘前藩屋敷は本所にあり、吉良邸とはそう遠くない。このことが、山鹿流に師事した津軽家重臣たち[5][6]と弘前大石氏との対立を生む[7]。
津軽家を憚り江戸を去って京で暮らすが宝永5年(1708年)に後妻の明栄が先立ち、江戸に再び戻り正徳2年(1712年)に死去。享年86。本行寺に葬られた[8]。京都の蟠桃院にも墓(埋葬を伴わない供養墓)がある。法名は寂照院三性道勺。
人間関係
編集- 弘前藩筆頭家老の山鹿政実(山鹿素行の嫡男)と敵対した[9]。元禄8年(1695年)4月17日、弘前藩世嗣・津軽信重(のちの信寿)が帰国の際には三平(良穀)を伴いわざわざ本所まで出かけて行き、信重の江戸出府見送りに出ていた山鹿政実に山鹿流の悪口を言い口論になっている[10]。
- また、元禄11年(1698年)5月12日、長男・良麿が正司氏の長女・玖美と婚姻したが、山鹿流門閥の元家老・津軽政朝が媒酌人となった事に無人は激怒し、息子の婚姻の儀や披露宴にも列席を拒絶した。これにより良麿は父と疎遠となり(無人は牢人、良麿は既に弘前藩士(広間詰番200石)であるから、廃嫡や義絶しても殆ど意味がないものの)、次男・三平(良穀)が大石西家(内蔵助の大石本家、瀬左衛門(信澄系)の大石分家に対する呼称)の後継とされた。
子孫
編集父・無人とともに赤穂義士を支援した次男の大石良穀(三平)は、吉良贔屓[11]の津軽家から放逐され、讃岐国高松藩松平家に仕えている。墓は本行寺(埋め墓・法名は玄忠院孝山一路居士。)と福厳寺(参り墓。ただし勤皇の志士の暴行で大幅に墓石が削られている)。
長男の大石良麿(郷右衛門)の庶子・良饒も弘前藩で厚遇されている山鹿系重臣(山鹿素行の孫・山鹿校尉など)と敵対し[12]弘前藩を離れ[13]、その良饒(無人の孫にあたる)が大石信清の瀬左衛門家を継承した事により、赤穂浪士の装束等の遺品は現在では赤穂の大石神社に納められている。
良饒(瀬左衛門)のあと次男・良實、その庶子・良臣が信清系大石氏(森家赤穂藩士)として繋がる。
なお、弘前大石氏は、寛延二年(1749年)に良麿の嫡男・良任(同名の郷右衛門を継ぐ)が相続、その弟である良誠の子・良篤(良任の養子)、良誠の孫・良遂(よしなり)と継承されていく。歴代の墓は無人・三平と別れ、曹洞宗から改宗したため、本行寺にある。良総・良穀・良饒の墓は破壊され現在は更地になっている[14]。
遺品
編集創作・脚色
編集小説
編集演じた俳優
編集脚注
編集- ^ 大佛次郎「赤穂浪士」では「むにん」とルビが振られている。
- ^ 義士銘々傳より(発行:泉岳寺)
- ^ 本田伸「元禄赤穂事件の周辺」(『東京と青森』2021年4月号)
- ^ 「大石瀬左衛門書状」五十二
- ^ 『山鹿語類』には「主のために命を棄つるは愚かなり」「諫めても改めぬ主君なら臣より去るべし」と「士は二君に仕える」を肯定する箇所があり、素行自身も実践している。(『山鹿語類』「臣道」より君臣論)
- ^ 同じく『山鹿語類』に「復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也」とあり、無許可のうえ火事と偽り闇討ちした赤穂事件とは対極に位置する。(『山鹿語類』「臣道」より報仇論)
- ^ 津軽藩の支藩(分家)である黒石藩(当時は大名ではなく旗本)の当主・津軽政兕や山鹿政実らの弘前藩士は、事件直後に真っ先に吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者を救出したと伝わる。松浦静山『甲子夜話』にも類似の記述あり
- ^ 『大石家系圖正纂』「大石良總傳」(柿崎輝彦、2021)
- ^ 『地方別日本の名族 一 東北編I』「津軽氏」(1989年 新人物往来社)
- ^ 表書記・貴田孫太夫筆録『津軽年代通記』
- ^ 重臣の乳井貢が元禄赤穂事件を激しく批判する著作を発表したり、赤穂浪士に同情した滝川統伴(主水)を宝永5年(1708年)に閉門、知行(1000石)没収の厳罰に処し、供養塔の破却を命じたりしている(津軽家文書『弘前藩庁日記』(国文学研究資料館ほか)
- ^ 大石良雄の遺児・大三郎が仕えた赤穂藩の宗家である広島藩浅野家は素行が批判した朱子学を藩学とした。(朱子学以外の素行の古学などの教授は講学所への出入りが禁じられた。)
- ^ 『大石家系図正纂』には山鹿校尉(津軽正方)や佐藤帯刀ら、弘前藩の山鹿系重臣の悪口「奸佞邪曲ノ者」などと書かれている。
- ^ 『中央義士会報』第73号10p
- ^ 新歌舞伎「元禄忠臣蔵」(真山青果、1934)