大村 (鳥取県)

日本の鳥取県八頭郡にあった村

大村(おおそん)は、鳥取県八頭郡にあった自治体である。1896年(明治29年)3月31日までは智頭郡に属した。

おおそん
大村
廃止日 1955年3月31日
廃止理由 新設合併
大村、用瀬町(初代)、社村用瀬町
現在の自治体 鳥取市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陰地方
都道府県 鳥取県
八頭郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 25.5 km2
総人口 1,535
鳥取県統計書、1954年)
隣接自治体 用瀬町(初代)、社村、佐治村智頭町河原町船岡町
大村役場
所在地 鳥取県八頭郡大村大字鷹狩22番地
座標 北緯35度21分11秒 東経134度12分25秒 / 北緯35.35311度 東経134.20708度 / 35.35311; 134.20708座標: 北緯35度21分11秒 東経134度12分25秒 / 北緯35.35311度 東経134.20708度 / 35.35311; 134.20708
特記事項 座標は現在の大村地区公民館位置
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概要

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現在の鳥取市用瀬町鷹狩・用瀬町赤波・用瀬町美成に相当する。千代川中流域、および支流の赤波川流域に位置した。

村名は3大字が医王山大安興寺の檀家であったことから、その頭文字の「大」をとったとされる[1]

藩政時代には鳥取藩領の智頭郡用瀬郷(もちがせのごう)に属する美成村・上鷹狩村・小田村・下鷹狩村・赤波村があった。赤波村には枝郷の杉森村・板井原村があったが共に享和3年(1803年)新田として幕府に届出、明治3年(1870年)領内限りで1村として分村した[1][2]

この地域にはドジョウが多く、ツルがよく飛来してきた。そのため殿様が鷹狩をする場所として鷹狩という地名になったとされる。また鷹狩は往古、因幡守を助けるために現地で行政を行う介の居た地(別符)とされ、因幡国一宮宇倍神社の記録では社領5ヶ所の1つとして高狩別符の名がある[1]

沿革

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  • 1877年(明治10年)5月22日 - 上鷹狩村・下鷹狩村・小田村が合併して鷹狩村となる。杉森村・板井原村が赤波村に合併する[1]
  • 1881年(明治14年)9月12日 - 鳥取県再置。
  • 1883年(明治16年)3月 - 用瀬宿(後の用瀬村大字用瀬)に置かれた連合戸長役場の管轄区域となる[3]
  • 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制の施行により、鷹狩村・赤波村・美成村が合併して村制施行し、智頭郡大村が発足。旧村名を継承した3大字を編成し、役場を鷹狩村に設置[4]
  • 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により、八上郡八東郡・智頭郡の区域をもって八頭郡が発足し、八頭郡大村となる。
  • 1915年(大正4年)1月1日 - 「大村大字◯◯村」から大字の「村」を削除し、「大村大字◯◯」と改称[5]
  • 1931年(昭和6年)9月23日 - 役場位置を大字鷹狩22番地に変更[6]
  • 1955年(昭和30年)3月31日 - 用瀬町(初代)、社村と合併し、改めて用瀬町(2代)が発足。同日大村廃止[7]

行政

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歴代村長

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氏名 就任年月日 退任年月日 地区 備考
山崎富雄 1889年(明治22年)11月 1914年(大正3年)12月 鷹狩
山崎菊蔵 1914年(大正3年)12月 1923年(大正12年)8月30日 鷹狩
林亀藏 1923年(大正12年)9月4日 1925年(大正14年)2月28日 鷹狩
森田富敬 1925年(大正14年)4月17日 1931年(昭和6年)10月13日 鷹狩
西村則敬 1931年(昭和6年)12月17日 1934年(昭和9年)3月3日 鷹狩
森田勘吉 1934年(昭和9年)6月22日 1942年(昭和17年)1月20日 鷹狩
西村則敬 1942年(昭和17年)1月25日 1945年(昭和20年)10月23日 鷹狩
林仲治 1945年(昭和20年)10月29日 1946年(昭和21年)11月19日 鷹狩
森田弘 1947年(昭和22年)4月5日 1948年(昭和23年)2月15日 鷹狩
藤原登亀男 1948年(昭和23年)3月29日 1955年(昭和30年)3月29日 美成
参考文献 - [1]

教育

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交通

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鉄道

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出身者

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脚注

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関連項目

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