大岡忠貫
日本の江戸時代後期~大正時代の大名・知藩事・子爵。武蔵岩槻藩7代藩主大岡忠恕長男で、岩槻藩8代藩主(大岡忠房家11代当主)。従五位下主膳正
大岡 忠貫(おおおか ただつら)は、江戸時代末期の大名。武蔵国岩槻藩第8代藩主。大岡忠房家11代当主。大岡忠恕の長男。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 弘化4年7月29日(1847年9月8日) |
死没 | 大正9年(1920年)1月3日) |
別名 | 正太郎(通称) |
墓所 | 玉峰山龍門寺 |
官位 | 従五位下・主膳正 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 武蔵国岩槻藩主、岩槻藩知事 |
氏族 | 大岡氏 |
父母 | 父:大岡忠恕 |
兄弟 | 忠貫、稲葉正善、田沼意斉、安藤某 |
妻 |
正室:土井利則の娘 継室:戸田忠至の娘 |
子 | 娘(大岡忠量正室)、養子:忠量 |
経歴
編集1866年(慶応2年)、父・忠恕の隠居により家督を相続した。武州世直し一揆では忍藩・高崎藩とともに鎮圧のために出兵した。1868年(慶応4年・明治元年)、戊辰戦争では新政府に恭順し、忠貫は東山道総督・岩倉具定の命により、幕府脱走兵の追討にあたった。1869年(明治2年)の版籍奉還で忠貫は岩槻藩知事に就任するが、1871年(明治4年)からの廃藩置県により、岩槻藩は廃藩となり、知藩事を罷免される。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1]。
1908年(明治41年)4月13日に隠居し[2][3]、家督は養嗣子の忠量が相続し、同年4月22日に子爵を襲爵した[2][4]。
家族
編集父母
- 大岡忠恕(父)
- 横田春松の娘(母)
妻
子女
養子
脚注
編集参考文献
編集- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (岩槻)大岡家初代 1884年 - 1908年 |
次代 大岡忠量 |