多門二郎
多門 二郎(たもん じろう、1878年(明治11年)9月10日[1][2] - 1934年(昭和9年)2月15日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
多門 二郎 | |
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多門二郎 | |
生誕 |
1878年9月10日 日本 静岡県 |
死没 | 1934年2月15日(55歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1900年 - 1933年 |
最終階級 | 中将 |
経歴
編集静岡県出身[1][2][3]。医師・多門信夫の二男として生まれる[1]。高等小学校、陸軍幼年学校を経て、1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し[2]、翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第4連隊付となる[1][3]。仙台陸軍地方幼年学校生徒監などを経て、歩兵第4連隊小隊長として日露戦争に出征した[1][2]。歩兵第4連隊副官、歩兵第3旅団副官などを歴任し、1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業した[1][2][3]。
陸士教官、第6師団参謀、歩兵第62連隊大隊長、陸大教官、欧州出張、歩兵第27連隊付(尼港派遣隊長)などを歴任[1][3]。尼港事件の際、多門支隊長として救援に向かった[2]。サガレン州派遣軍参謀、歩兵第2連隊長、第4師団参謀長を経て、1924年(大正13年)2月、陸軍少将となる[1][3]。
歩兵第6旅団長、陸大付、参謀本部第4部長、陸大幹事などを歴任し、1929年(昭和4年)8月、陸軍中将となり陸大校長に就任[1][2][3]。以後、第2師団長に親補され[1][3]満州に駐屯、満州事変が勃発し諸作戦に従軍した[2]。1933年(昭和8年)1月、内地に帰還し[1]、仙台市民から熱狂的な歓迎を受ける[要出典]。そのため市内の大通りの一つ(南町通り)は「多門通り」と改名された[要出典]。同年8月、待命となり予備役に編入された[1][2][3]。墓所は多磨霊園[4]。
栄典
編集親族
編集著書
編集- 『余ガ参加シタル日露戦役』兵事雑誌社、1910年。
- 『日露戦争日記』新装版、芙蓉書房出版、2004年。
- 『弾雨を潜りて』織田書店、1927年。
伝記
編集- 『多門将軍』仙台市教育会、1933年。