多久安順
多久 安順(たく やすとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。龍造寺氏、鍋島氏の家臣。多久鍋島家(後多久氏)初代当主。
多久安順像(多久市郷土資料館蔵) | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 永禄9年(1566年)または永禄6年(1563年)とも[1] |
死没 | 寛永18年10月26日(1641年11月28日)[1] |
改名 | 龍造寺家久、多久安順 |
別名 | 長門 |
主君 | 龍造寺隆信、政家、高房、鍋島勝茂 |
藩 | 肥前佐賀藩 |
氏族 | 龍造寺氏、後多久氏(多久鍋島家) |
父母 | 龍造寺長信、小田政光娘 |
兄弟 | 安順、後藤家忠室、真光院 |
妻 | 鍋島直茂次女・千鶴 |
子 | 茂辰、伊勢菊 |
略歴
編集永禄9年(1566年)あるいは永禄6年(1563年)、龍造寺長信の子として誕生。初名は龍造寺家久。初代多久邑主となり、多久長門安順と名乗る。正室は鍋島直茂次女・千鶴。
文禄・慶長の役に参加、その引き揚げの時、朝鮮から同行した陶工の李参平らを多久で預かり、肥前国磁器(伊万里焼)の源流を作った。関ヶ原の戦いでは、主家に従い西軍に属しながら、徳川家康に大量の米を送った。慶長12年(1607年)に龍造寺高房が死去し、龍造寺氏本家が断絶すると、それを引き継いだ鍋島氏に重用され、親族と同等の待遇を得た、佐賀藩請役を務めた。
寛永11年(1634年)、高房の子・伯庵が龍造寺季明と名乗り、3代将軍・徳川家光に佐賀藩領は龍造寺氏のものであると主張した時、安順が出府した。また、庶子である季明(伯庵)が継ぐのであれば自分の方が正統であると言いくるめ、幕府に鍋島氏の支配の正当性を主張した。