堀内誠一

日本のグラフィックデザイナー (1932-1987)

堀内 誠一(ほりうち せいいち、1932年12月20日 - 1987年8月17日)は、日本グラフィックデザイナーエディトリアルデザイナー絵本作家

堀内ほりうち 誠一せいいち
生誕 1932年12月20日
東京府
死没 (1987-08-17) 1987年8月17日(54歳没)
配偶者 堀内路子
子供 堀内花子、堀内紅子
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生涯

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東京府向島(現・墨田区)生まれ。父・堀内治雄も図案家で、近代日本における商業デザイナーの先駆けだった。

小学1年生時にすでに私家版雑誌を作りはじめる。最終学歴は日本大学第一商業学校(現在の日本大学第一高等学校)中退。1947年4月に14歳で伊勢丹百貨店に入社。1948年、現代美術会展激励賞。1955年アド・センター株式会社設立。1958年に内田路子(内田巌の娘)と結婚。1968年から翌1969年にかけて澁澤龍彦とともに季刊誌である『血と薔薇』を編集した。1974年フランスパリ郊外のアントニーに移住。パリ在住日本人向けミニコミ誌『イリフネ・デフネ』(現『OVNI』)創刊に参画。1981年まで定住。1987年に下咽頭癌により死去。享年54。

堀内がデザインした平凡出版(現マガジンハウス)の雑誌『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』『Olive』は現在もなお、そのロゴが使用されている[1]

家族

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  • 父の堀内治雄は多田北烏に師事した図案家で、戦前は北烏の下で働き、戦後は交通博物館に籍を置いてレタリングやポスターデザインを手掛け[2]、北烏のサン・スタジオをまねて向島にレインボー・スタジオを設立した[3]
  • 母の咲子は石川県羽咋の地主の娘で、治雄が体を壊して以降は一家の働き手として洋裁の内職で家計を支えた[2]
  • 妻の堀内(内田)路子の父は洋画家・内田巌、祖父は翻訳者・作家の内田魯庵。妻・路子が翻訳し、誠一が絵を担当した共著の児童書がある。
  • 二人の子供も共に翻訳者の道に進み、長女の堀内花子はロベール・ドアノーほか写真集・美術書、次女の堀内紅子は児童書を訳している。

絵本作家として

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前述の、結婚した年に初の絵本『くろうまブランキー』を出版したが、後期には絵本作家としても多数の作品を残した。主に福音館書店こどものとものシリーズとして出版された。

代表的絵本作品

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  詩人・谷川俊太郎と作った「ことばのえほん」シリーズ(全3巻)。2009年夏、復刊(くもん出版)。

その他の著書

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  • 「父の時代・私の時代」 日本エディタースクール出版部(1979年)、増訂版・マガジンハウス、2007年。新版・ちくま文庫、2023年
  • 「堀内誠一の空とぶ絨緞」平凡出版(1989年)
  • 「パリからの旅―パリとフランスの町々」マガジンハウス(1990年)
  • 「ぼくの絵本美術館」マガジンハウス(1998年)
  • 「堀内誠一 絵の世界」平凡社(2022年)

展覧会

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2009年世田谷文学館伊丹市立美術館にて「堀内誠一 旅と絵本とデザインと」展開催。その後2011年のうらわ美術館まで日本各地を巡回した。

参考文献

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  • 「堀内誠一 旅と絵本とデザインと」コロナブックス編集部編 コロナブックス編集部(2009年)

脚注

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  1. ^ フランスに渡った堀内の後任として、新谷雅弘が『ポパイ』『ブルータス』『オリーブ』を引き継いだ。
  2. ^ a b 堀内誠一 娘たちの思い出太陽web, 2022.4.6
  3. ^ 堀内誠一 父の時代・私の時代 日本エディタースクール出版部 1979松岡正剛の千夜千冊102夜、2000年7月31日

外部リンク

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