千島 (通報艦)
千島(ちしま)は、日本海軍の水雷砲艦[2]、または通報艦[3]。艦名は千島列島 (または千島国[8]) に由来する[20][21]。
千島 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | ロワール社 (フランス)[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 水雷砲艦[2]、または通報艦[3] |
建造費 | 717,327.363円[4] |
母港 | 佐世保[5] |
艦歴 | |
計画 | 第一期軍備拡張[6] (1886年) |
発注 | 1889年11月11日製造契約[7] |
起工 | 1890年1月29日[8] |
進水 | 1890年11月26日[2] |
竣工 | 1892年4月1日[9] |
最期 | 1892年11月30日沈没 |
要目(計画) | |
排水量 | 750ロングトン (762 t)[2] |
垂線間長 | 71 m[2][10] |
幅 | 7.760 m[4][2][10] |
深さ | 4.800 m[4] |
吃水 |
大体要領:2.99 m[10] 竣工時計画:2.900 m[2][4] |
ボイラー | 汽車缶[4] 6基[11] |
主機 | 直立2段レシプロ[4] |
推進 | 2軸[12] |
出力 | 5,000 hp (3,728 kW)[2] |
帆装 | 3檣[4] |
速力 |
計画:22ノット[10] 試験:19.655ノット(単純平均)[13] または19.966ノット(平均の平均)[14] |
燃料 | 石炭:定量90.150トン[15] |
航続距離 | 13ノットで約50時間[16] |
乗員 |
計画乗員:82名[10] 竣工時定員:99名[17][4] |
兵装 |
57ミリ保式速射砲 5門[2] 47ミリ保式速射砲 6門[2] 魚雷発射管 固定式2門、旋回式2門[18] 魚雷 10本[19] 探照灯 2基[4] |
搭載艇 | 小蒸気船1隻、端艇4隻[4] |
その他 |
船材:鋼[2] 煙突2本[11] |
概要
編集1886年(明治19年)12月上旬、フランスから日本へ回航中の巡洋艦「畝傍」が行方不明となり(喪失認定)、日本側は保険金で巡洋艦「千代田」(イギリス)を建造した[22]。フランス側が建造したのが本艦である。
「八重山」に続いて、日本海軍が建造した2番目の通報艦(当時の呼称は報知艦[3])になる[21]。 エミール・ベルタンが、自ら信奉する青年学派思想に基づいて[要出典]設計を行い、 水雷艇の駆逐任務も考えていた[19]。 また強力な魚雷兵装(発射管4門、魚雷10本の計画[19])を持ち、水雷砲艦とも称された[21]。 艤装面では艦首にバウスプリットがあり、巡航時の帆走を重視したフランス建造艦らしい特徴がある[23]。
フランスから日本へ回航中の1892年(明治25年)11月30日、瀬戸内海でイギリス商船と衝突して沈没[24][25]。国内問題および国際問題に発展した(千島艦事件)。
艦歴
編集計画
編集計画時の名称は第二報知艦[3]。 1886年 (明治19年) 9月、建造予定の通報艦2隻のうち、1隻の排水量を700トンに変更し、海外に注文することにした[26]。 1887年(明治20年)6月6日、日本海軍は建造予定の艦艇7隻について、艦名を内定(厳島、松島、橋立、八重山、千島、満珠、干珠)[3][27]。 1889年 (明治22年) 10月、フランスのロワール社と2,000,000フラン (兵器価格等は含まず[28]) で契約することを決定[29]、 11月11日に契約を締結した[7]。
建造
編集1890年(明治23年)1月29日、「千島」はフランス、ロワール社サン・ナゼール造船所で起工[20]。 8月22日、佐世保鎮守府所管の第一種と定められる[5]。 同年11月26日、進水[20][4]。 1891年 (明治24年) 12月24日行われた速力試験では19.655ノット (3回の単純平均) しか出せず (計画は22ノット[10]) 、同日4回目の計測はボイラーの故障により中止になった[13]。 会社側は何度も試験出来ると主張したが[13]、 1892年 (明治25年) 3月に引き渡しの遅延 (契約での引き渡し期限は契約締結日から16カ月[30]の1891年3月10日) を含めた減額を555,800フランとして、「千島」の引き渡しを求め[31]、 最終的な支払は429,563.96フランの減額で合意した[32]。 1892年(明治25年)4月1日、竣工[20]。
回航・沈没
編集同年4月18日、フランスを出港[33]。 アレクサンドリア[34]、 アデン[35]、 シンガポール[36] などを経由して、同年11月24日に長崎に到着した[37] (暴風雨のための避難[38]) 。 11月28日、「千島」は長崎から神戸に向けて出港[39]したが、 悪天候の為に一旦引き返し、29日未明に再度出港した[40]。 11月30日午前4時20分頃に愛媛県の興居島と睦月島の間で神戸から出港したP&O社所属の英商船「ラベンナ(Ravenna)」が「千島」中央部に衝突し、4時58分に「千島」は沈没した[41][42]。事故時の千島乗組員90名の内、74名が犠牲となった(生存者、千島艦長心得の鏑木誠大尉以下日本海軍15名、フランス人機関士1名)[43][44]。瀬戸内海所在の日本艦3隻(葛城、武蔵、筑波)等が救援に向かった[45][41]。
この事故は国際問題と国内問題に発展した[46][47]。 横浜の英国領事裁判所に提訴され日本側の実質勝訴だったが、上海の英国高等領事裁判所での第2審では敗訴した[48]。 後にイギリス枢密院に上訴して差し戻し判決が出されたため、最終的にイギリス政府の意向で1895年(明治28年)9月19日をもって和解となった(千島艦事件)[49]。
艦長
編集脚注
編集出典
編集- ^ #日本海軍全艦艇史(1994)下巻p.464、No.1126の写真解説
- ^ a b c d e f g h i j k l #公文備考別輯/千島製造一件(8)コマ49、「軍艦千鳥」。(要目)。
- ^ a b c d e #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ197『◎海防艦嚴島松島橋立報知艦八重山千島練習艦満珠命名ノ件 明治二十年六月六日(訓令六二)新艦ニ命名セラルヽコト左ノ如シ 但命名式相濟マテノ間ハ假名ト心得ヘシ
第一海防艦 佛國ニ於テ建造嚴 島 |第二海防艦 同上松 島 |第三海防艦 横須賀造船所ニ於テ建造橋 立|第一報知艦 同上 八 重 山 |第二報知艦 計畫中千 島 |風帆練習艦 小濱造船所ニ於テ建造滿 珠 |同 同上干 珠』 - ^ a b c d e f g h i j k #災害篇コマ42『○千島の構造、千島艦は曾ても記せし如く佛國地中海鍛鐡造船會社に於て製造したるものなるが、其構造は左の如し。 銅製、定員九十九名、長七十一メートル、幅七メートル七六〇、深四メートル八〇〇、平均吃水二メートル九〇〇、排水は七百五十噸、檣三本、汽罐ロコモチープ形、汽機縦置膨張聯成、馬力五〇〇〇、兵装連射砲十一門、水雷發射管四門、電氣燈二基、附属小蒸汽船一隻、端艇四隻。
但しトルピートカッチャー型にして廿二年十一月起工廿三年十一月廿六日進水式を擧行せり、又其製造費用は七十一萬七千三百二十七圓三六錢三厘にして我廻航委員の請取りたるものなれば保險は附しあらず。』 - ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ49『◎軍艦種別ノ件 明治二十三年八月二十三日(達三〇四)横須賀鎭守府所管軍艦浪速、扶桑、高雄、武藏、八重山、橋立、筑波、愛宕、天城ヲ第一種ト定メラレ水雷艇小鷹、第一水雷艇、第二水雷艇、第三水雷艇、第四水雷艇ヲ第二種ト定メラレ軍艦龍驤、迅鯨、淺間、干珠ヲ第三種ト定メラレ呉鎭守府所管軍艦金剛、比叡、大和、筑紫、摩耶、赤城、嚴島、千代田、天龍、鳳翔ヲ第一種ト定メラレ軍艦館山、石川ヲ第三種ト定メラレ佐世保鎭守府所管軍艦高千穂、葛城、磐城、松島、千島、大島、秋津洲、日進、海門、鳥海ヲ第一種ト定メラレ軍艦春日、滿珠ヲ第三種ト定メラル』
- ^ #海軍軍備沿革pp.15-16
- ^ a b #公文備考別輯/千島製造一件(4)画像41
- ^ a b #艦船名考(1928)p.65
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(5)コマ14「電文譯 千島ハ四月一日受領セリ 二十五年四月八日 在佛野村公使 海軍大臣宛」
- ^ a b c d e f #公文備考別輯/千島製造一件(2)コマ3、「水雷駆拳艦千鳥大体の要領」。
- ^ a b #公文備考別輯/千島製造一件(6)コマ54、本官ト保証機関士「イノー」氏トノ問答、第四。同画像60、略図
- ^ #日本近世造船史明治(1973)p.451
- ^ a b c #公文備考別輯/千島製造一件(4)コマ21。
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(5)コマ5。
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(2)コマ39、重量の概表
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(1)コマ43、「一 扇風機ヲ使用セサルヰハ十三節ノ速力ニテ凡ソ五十時間ノ石炭貯量アルヲ以テ報知艦トシテ任用シ得ル者トス」
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.190-192、明治23年10月18日勅令235号、軍艦團隊定員
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(3)コマ11-18「水雷艇攻撃艦千鳥ニ備付ヘキ遊動水雷発射管二個固定発射管二個及其装薬附属品豫備品ノ注文ニ関スル売買条約」
- ^ a b c #公文備考別輯/千島製造一件(1)コマ22-23、綱領書「今要スル所ノ七百噸艦ハ水雷艦殊ニ水雷艇駆撃艦ノ用ヲ為スニ供スル者ナリ其兵装ハ左ノ如シ 第一水雷発射管四個ニシテ前後両部ニ各一個両舷ノ可動架上ニ各一個ヲ備(匙頭管)水雷十個(以下略)」
- ^ a b c d #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ39(原本51頁)『千島(ちしま) 艦種砲艦 三檣「スクーナー」型 艦名考地名(北海道千島)に採る。 艦歴明治25年4月1日佛國にて竣工、同月佛國出發、同年11月24日長崎着、同月30日愛媛縣堀江沖に於て英國商船ラベンナ號と衝突沈没。
―要目― 長233呎/幅25呎6吋/吃水9呎6吋/排水量750噸/機關 汽雙螺旋/馬力5,000/速力22/乗組人員99/船材 鋼/兵装 速射砲11/起工 明治23-1-29/進水 同23-11-26/竣工 同25-4-17/建造所 佛國ロワールール社』 - ^ a b c 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版p.541
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ22『明治二十年 畝傍ノ保險金一,二四五,三〇九圓ノ収入ニヨリ其ノ代艦トシテ千代田ノ製造ニ着手シタル外、八重山及水雷艇小鷹ヲ起工シ葛城及大和ヲ竣工ス』
- ^ #日本海軍全艦艇史(1994)下巻p.464、No.1127の写真解説
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ223(原本55頁)『同(明治)二五・一一・三〇|軍艦千島、愛媛縣堀江沖ニテ英船「ラヴェンナ」號ト衝突沈没ス』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ23『明治二十五年(略)同年中吉野及須磨ヲ起工シ千島、大島及松島ヲ竣工セシガ千島ハ十一月三十日愛媛縣堀江沖ニテ英國商船「ラヴェンナ」ト衝突シテ沈没セリ』
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(1)コマ16-17、艦新第12号。>
- ^ 「新造ノ第一海防艦外六艦ニ仮名ヲ附ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15111325300
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(2)コマ14-16、製造條約書第二條
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(2)コマ1-2、明治22年10月官房2099号
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(2)コマ26-27、製造條約書の第十條
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(5)コマ1-2、明治25年3月3日発電報「在仏公使ヘ電報案 千島ヲ領収セントスルニハ速力ヲ十九海里ト見倣シ総計五拾五万五千八百法ヲ減額スルコトヲ會社ヘ申込アリタシ(以下略)」
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(5)コマ22、減却高内訳
- ^ 明治25年4月20日官報第2640号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○軍艦發箸 佛國ニ於テ製造ノ佐世保鎭守府所轄軍艦千島ハ竣工一昨十八日里斯本ニ向ヒ抜錨(海軍省)』
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(8)コマ16-17、電報
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(8)コマ25、電文訳「安着セリ勲章ハ香港領事館ヘ乃送附アリタシ 廿五年九月十八日午後八時四十五分 亞丁發信 鏑木大尉 相浦第二局長宛」
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(8)コマ28、電文訳「到着セリ 鏑木 廿五年十月十七日午後八時五十五分 新嘉坡發 相浦第二局長殿」
- ^ 明治25年11月26日官報第2825号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○軍艦發箸 常備艦隊軍艦高雄ハ一昨二十四日佐世保港ニ向ヒ鹿兒島抜錨、横須賀鎭守府所轄練習艦天城ハ同日陸中山田ヘ投錨、呉鎭守府所轄練習艦館山ハ同日宇品抜錨呉港ヘ投錨、佐世保鎭守府所轄軍艦千島ハ同日長崎港ヘ投錨(海軍省)』
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(8)コマ42、電報「大嵐ノ為メ逃ケ込ム天気次第出ル 十一月廿四日午後七時三十分発 長崎 鏑木千島艦長心得 海軍大臣」
- ^ 明治25年11月30日官報第2828号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○軍艦發箸 常備艦隊軍艦浪速ハ一昨二十八日品海ヘ投錨、同葛城、武藏ハ同日兵庫港ヘ投錨、横須賀鎭守府所轄警備官愛宕ハ同日函館港ヘ投錨、同練習艦天城ハ本月二十七日大船戸抜錨萩ノ濱ヘ投錨一昨二十八日横須賀港ニ向ヒ同所抜錨、呉鎭守府所轄警備艦嚴島ハ同日武豊港ヘ投錨、同摩耶ハ同日嚴島抜錨多度津ヘ投錨、同練習艦金剛ハ同日桑港ニ向フ「ヴァンクーヴァル」抜錨、佐世保鎭守府所轄軍艦千島ハ同日神戸港ニ向ヒ長崎港ヲ抜錨セリ(海軍省)』
- ^ #公文備考別輯/千島製造一件(8)コマ63、官報原稿「十二月三日掲載 軍艦千島沈没続報 昨日軍艦千島ハ客月二十八日長崎出発ノ旨報告セシカ後報知セル所ニ依ルニ二十八日出発セシモ天候悪シキニ因リ引返シ翌二十九日未明ニ出発セシコトノコトナリ又神戸より軍艦摩耶モ亦救助ニ赴キ各艦ハ千島沈没ノ位置及死体等捜索ニ従事中ナリシモ死体ハ未タ一人モ見エス又生存者ハ皆病況ニ心配ナシト云フ」
- ^ a b 明治25年12月2日官報第2830号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○軍艦千島沈没』
- ^ 『日本海軍史 第1巻』98ページ
- ^ #災害篇コマ41『○乗組員の生死、千島艦乗組員の總數は七十九名とありしも其實は九十名にして内幸ひにラベナ號に救揚られしは士官二人、下士以下十三人、佛國人一名合計十六名なり。(姓名略ス)』
- ^ #災害篇コマ42-43『○ラベナ號の待遇冷淡を極む』
- ^ #災害篇コマ41-42『○救助艦 神戸に碇泊なりし葛城、武藏二艦幷ニ門司に滞泊中なしり筑波管救助の爲現場に赴けり出張の武官と軍醫は呉鎭守府の福間永峯兩海軍大尉並に海軍省第三局第三課次長矢野大主計にて何れも遭難地へ出張し又呉鎭守府の三宅大軍醫も負傷者治療の爲め出張せりと。』
- ^ 北垣恭次郎「千島艦」『大国史美談.巻7』実業之日本社、1943年11月 。
- ^ 松波仁一郎「二 千島艦衝突事件」『東郷元帥と山本権兵衛伯』鹿児島市郷土課、1943年9月 。
- ^ #明治の海軍物語コマ64-65(原本111-頁)『此の頃軍艦千島沈没事件と云ふものがあった。千島は仏蘭西に於て建造した水雷砲艦で、本邦に囘航し、伊豫國興居島附近に達したときに、英國PO會社商船ラベンナ號と衝突沈没し、乗組員の多くは溺死した。本件に關し我政府はPO會社を相手取り、横濱の英國領事裁判所に八十五萬圓の損害賠償請求訴訟を起したが、PO會社は衝突の過失は寧ろ千島にありとし反訴を起こした。英國領事裁判所がこの反訴を却下すると、PO會社は更に上海の英國上等裁判所に控訴し、結局日本は敗訴となつた。』
- ^ #災害篇コマ52-53『○千島艦事件の落着(明治二十八年九月二十一日 讀売新聞)』
- ^ 明治24年1月21日官報第2266号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ1
- ^ 『日本海軍史』第9巻、807頁。
- ^ 明治26年2月7日官報第2880号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2
参考文献
編集- 浅井将秀 編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- アジア歴史資料センター
- 防衛省防衛研究所
- 『公文備考別輯』
- 「千島製造一件 伊予海に於て沈没(1)」『公文備考別輯 完 新艦製造部 千島(沈没) 明治19~26』、JACAR:C11081486100。
- 「千島製造一件 伊予海に於て沈没(2)」『公文備考別輯 完 新艦製造部 千島(沈没) 明治19~26』、JACAR:C11081486200。
- 「千島製造一件 伊予海に於て沈没(3)」『公文備考別輯 完 新艦製造部 千島(沈没) 明治19~26』、JACAR:C11081486300。
- 「千島製造一件 伊予海に於て沈没(4)」『公文備考別輯 完 新艦製造部 千島(沈没) 明治19~26』、JACAR:C11081486400。
- 「千島製造一件 伊予海に於て沈没(5)」『公文備考別輯 完 新艦製造部 千島(沈没) 明治19~26』、JACAR:C11081486500。
- 「千島製造一件 伊予海に於て沈没(6)」『公文備考別輯 完 新艦製造部 千島(沈没) 明治19~26』、JACAR:C11081486600。
- 「千島製造一件 伊予海に於て沈没(8)」『公文備考別輯 完 新艦製造部 千島(沈没) 明治19~26』、JACAR:C11081486800。
- 防衛省防衛研究所
- 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
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- 海軍歴史保存会(編)『日本海軍史 第1巻 通史第一・二編』海軍歴史保存会、1995年
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 木俣滋郎『艦艇発達史』〈光人社NF文庫〉、2002年。
- 造船協会 編『日本近世造船史 (明治時代)』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年12月。ISBN 4-584-17054-1。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)』海軍大臣官房、1939年 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
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- 坂下亀太郎「千島艦。」『絵入幼年読本』博文館、1893年6月 。
- 帝国水難救済会 編『帝国軍艦帖』帝国水難救済会出版部、1916年5月 。
- 中島武『明治の海軍物語』三友社、1938年11月 。
- 福良虎雄『千島艦事件』報知社、1893年12月 。
- 藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第2輯』財団有終會、1926年12月 。