千坂清高
江戸時代後期の米沢藩の江戸家老・奉行
千坂 清高(ちさか きよたか)は、江戸時代後期の米沢藩の江戸家老・奉行。
時代 | 江戸時代 |
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死没 | 享和元年3月8日(1801年4月20日) |
別名 | 與市、太郎左衛門、嘉遯斎 |
戒名 | 清高院殿嘉遯日駿居士 |
墓所 | 日朝寺 |
主君 | 上杉治憲→上杉治広 |
藩 | 米沢藩 江戸家老・奉行 |
氏族 | 千坂氏 |
父母 | 父:千坂高敦、母:市川薫雄の娘 |
妻 | 芋川正令(縫殿)の娘 |
子 | 千坂高容、千坂興高 |
経歴
編集安永4年(1775年)7月3日、父千坂高敦の七家騒動の処分による半知召上隠居閉門を受け、元の石高の半分で家督相続。782石、侍組。
安永8年(1779年)7月11日 侍頭 返秩391石2斗5升賜る。
天明元年(1781年)1月5日 江戸家老 返秩391石2斗5升賜り、本領安堵。
天明3年(1783年)5月23日、美濃高須藩主松平義裕を江戸藩邸に招いた際の饗応掛りを担当。御城坊主二人と画上司馬江漢を召し出し、種々の饗応を進めたと記録あり[1]。
天明4年(1784年)10月17日 奉行。
天明5年(1785年)5月20日 御記録所御用掛を命じられる。
天明6年(1786年)7月5日 退役、中之間総上席詰め。
天明8年(1788年)12月19日 隠居。
享和元年(1801年)3月8日 死去。
脚注
編集- ^ 『上杉家御年譜11』P86-87
出典
編集- 『上杉家御年譜23「御家中諸士略系譜」』米沢温故会 1986.1(経歴)
- 『上杉家御年譜11(治広公1)』米沢温故会 1980.1