北長狭通

日本の兵庫県神戸市中央区の町名
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北長狭通(きたながさどおり)は兵庫県神戸市中央区町名。現行行政地名は北長狭通一丁目から北長狭通八丁目。郵便番号は650-0012。

地理

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当地の街並み
北長狭通4丁目で撮影
 
当地の商業地域
北長狭通4丁目で撮影

生田区東部のJR東海道本線および阪急神戸高速線の北側の区域である。商業地域が殆どを占め、飲食店・事務所・商店のビルや集合住宅が建ち並ぶ。また幾つかの風俗店ファッションヘルス)も立ち並んでいる。

東は加納町、南は東から順に三宮町元町通元町高架通、西は南から順に多聞通橘通、北は西から順に楠町下山手通花隈町下山手通中山手通。東西に非常に細長く東から順に一~八丁目があり、五丁目と六丁目の間は一見途切れているように見えるが六丁目東部は道路上にあって花隈駅が属する。

歴史

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明治7年(1874年)に神戸町のうち大手町・浜ノ町・札場町・松屋町・中ノ町・西ノ町・城下町・東本町・八幡町・市場町・花隈町・生田宮町・北野町の各一部から成立。『西摂大観』によれば、町名の由来は古代の地名活田長峡国からとったが「狭」と間違えたからという。一説には生田神社の祭主・海上五十狭茅の「狭」と混同したとも、「長ヲサ」で長形地割の田の多い所(ヲサは田一枚の事、田そのものをいう)から付いたともいう[1]

初代兵庫県知事・伊藤博文は六丁目にあった橋本花壇(後の花隈の料亭吟松亭)を仮住居とし、一年余り風雅な生活を送ったといわれる[1]

明治中期~区制施行まで「神戸」を冠称して神戸北長狭通とされていた。

はじめ神戸町、明治12年(1879年)より神戸区、明治22年(1889年)より神戸市、昭和6年(1931年)より神戸市生田区、昭和55年(1980年)より神戸市中央区に所属。

また『兵庫県八部郡地誌』(明治16年5月頃)に「西宇治川ヨリ東旧生田川ニ至ルノ左右道路始テ接続ス。北ヲ北長狭通リトシ南ヲ南長狭通リト云フ」と見えるが、「南長狭通」は町名として定着せず間もなく消滅した。

人口統計

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  • 平成17年国勢調査(2005年10月1日現在)での世帯数1,365、人口1,992、うち男性997人、女性995人[4]
  • 昭和63年(1988年)の世帯数943・人口2,118[5]
  • 昭和35年(1960年)の世帯数2,068・人口8,323[5]
  • 大正9年(1920年)の世帯数2,243・人口10,354[5]
  • 明治34年(1901年)の戸数1,956・人口8,290[5]
  • 明治25年(1892年)の戸数1,367・人口5,985[5]

施設

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出身・ゆかりのある人物

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脚注

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  1. ^ a b 神戸史学会 2007
  2. ^ 山手教育四十年P7 神戸市山手尋常小学校 編 昭和15年 国会図書館デジタル化資料
  3. ^ 暴力団排除特別強化地域の設定”. 兵庫県警察 (2020年). 2022年9月19日閲覧。
  4. ^ 神戸市町別世帯数・年齢別人口(国勢調査)”. 神戸市. 2009年8月27日閲覧。
  5. ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1988
  6. ^ 『人事興信録 第6版』つ10頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月26日閲覧。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 神戸史学会 編『神戸の町名 改訂版』神戸新聞総合出版センター、2007年。ISBN 978-4-343-00437-6 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三 編『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』角川書店、1988年。ISBN 978-4040012803