北花内大塚古墳(きたはなうちおおつかこふん)は、奈良県葛城市北花内にある古墳。形状は前方後円墳

北花内大塚古墳

墳丘全景(左に前方部、右に後円部)
所在地 奈良県葛城市北花内
位置 北緯34度29分3.54秒 東経135度43分36.55秒 / 北緯34.4843167度 東経135.7268194度 / 34.4843167; 135.7268194座標: 北緯34度29分3.54秒 東経135度43分36.55秒 / 北緯34.4843167度 東経135.7268194度 / 34.4843167; 135.7268194
形状 前方後円墳
規模 墳丘長90m
埋葬施設 不明
出土品 埴輪・笠形木製品
築造時期 古墳時代後期初頭
被葬者宮内庁治定)飯豊天皇
陵墓 宮内庁治定「埴口丘陵」
地図
北花内 大塚古墳の位置(奈良県内)
北花内 大塚古墳
北花内
大塚古墳
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飯豊天皇埴口丘陵 拝所

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「埴口丘陵(はにぐちのおかのみささぎ)」として第17代履中天皇皇孫女の飯豊天皇(飯豊青皇女)に治定されている。

概要

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奈良県西部の奈良盆地南西縁、葛城山麓の平野部に築造された古墳である[1]。現在は宮内庁治定の皇族陵として同庁の管理下にあるが、これまでに同庁による調査などが実施されている。

墳形は前方部が大きく発達した前方後円形で、前方部を南西方に向ける[2]。段築・造出の有無は不明[1]。墳丘表面では円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(盾形埴輪)のほか、コウヤマキ製の笠形木製品が検出されている[1][2]。墳丘周囲には周濠(幅10-15メートル)が巡らされる[1]。埋葬施設および副葬品は明らかでない[1]

この北花内大塚古墳は、古墳時代後期初頭頃の築造と推定される[1]。葛城地方では室宮山古墳御所市室)に始まる首長墓系譜が御所地域から忍海地域に移る様相を示すが、その中で本古墳は忍海地域に移動後の屋敷山古墳・火振山古墳の後続首長墓に位置づけられる[1]。被葬者は明らかでないが、前述のように現在は宮内庁により第17代履中天皇皇孫女の飯豊天皇(飯豊青皇女)の陵に治定されている[3]

遺跡歴

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墳丘

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墳丘の規模は次の通り[1]

  • 墳丘長:90メートル
  • 後円部 直径:50メートル
  • 前方部 幅:70メートル

墳丘は近世に神社が遷座された際に大きく改変を受けている[4][1]

被葬者

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角刺神社(葛城市忍海)
忍海角刺宮(葛城忍海之高木角刺宮)伝承地。

北花内大塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第17代履中天皇皇孫女の飯豊天皇(飯豊青皇女:いいとよのあおのひめみこ)のに治定している[3][5][6]。飯豊青皇女の墓について『古事記』に記載はないが、『日本書紀顕宗天皇即位前紀では「葛城埴口丘陵」と見える[3]。『延喜式諸陵寮では遠墓の「埴口墓」として記載され、大和国葛下郡の所在で、兆域は東西1町・南北1町で、守戸3烟を毎年あてるとする[3]

飯豊青皇女(飯豊女王/飯豊郎女/飯豊王/青海皇女/青海郎女/忍海部女王/忍海郎女)は、清寧天皇(第22代)の崩御後に億計王(仁賢天皇)・弘計王(顕宗天皇)が皇位を譲り合ったため、忍海角刺宮(葛城忍海之高木角刺宮、伝承地は葛城市忍海の角刺神社)で政務をとったとされる人物である[7][8]。『日本書紀』では清寧天皇5年11月に崩御し、『本朝皇胤紹運録』では45歳であったとする[7]。飯豊青皇女が即位したかは明らかでないが、『日本書紀』では「飯豊青尊」として墓所も「陵」と記す(通常の皇族墓は「墓」)ことから、古くから歴代天皇に位置づける説が生じており、『扶桑略記』・『本朝皇胤紹運録』では「飯豊天皇」と記載されている[7][8]。本陵においても元治元年(1864年)に『日本書紀』に従って「陵」と定められており、これが現在まで踏襲されている[7]

日本書紀』に基づく関係系図
16 仁徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中天皇18 反正天皇19 允恭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐皇子20 安康天皇21 雄略天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯豊青皇女
(飯豊天皇?)
億計王
(24 仁賢天皇)
弘計王
(23 顕宗天皇)
22 清寧天皇

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 北花内大塚古墳(続古墳) 2002.
  2. ^ a b c d 埴口墓(平凡社、刊行後版) 2006.
  3. ^ a b c d 埴口丘陵(国史).
  4. ^ a b c 埴口墓(平凡社) 1981.
  5. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)10コマ。
  6. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 405。
  7. ^ a b c d 飯豊青皇女(国史).
  8. ^ a b 飯豊青皇女(古代氏族) 2010.

参考文献

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(記事執筆に使用した文献)

  • 国史大辞典吉川弘文館 
    • 北村文治 「飯豊青皇女」中村一郎 「埴口丘陵」(飯豊青皇女項目内)
  • 「埴口墓」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301 
    • 刊行後版(ジャパンナレッジ収録)、2006年
  • 卜部行弘「大塚古墳 > 北花内大塚古墳」『続 日本古墳大辞典東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991 
  • 「飯豊青皇女」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588 

関連文献

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(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 「埴口丘陵外堤の樋管改修箇所の調査」『書陵部紀要 第31号』宮内庁書陵部、1980年。 
  • 「埴口丘陵外堤護岸工事区域の調査」『書陵部紀要 第32号』宮内庁書陵部、1981年。 
  • 「埴口丘陵整備工事区域の調査」『書陵部紀要 第34号』宮内庁書陵部、1983年。 
  • 「飯豊天皇 埴口丘陵見張所改築箇所の立会調査」『書陵部紀要 第52号 (PDF)』宮内庁書陵部、2001年。[https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/000/kiyo052b020.pdf 書陵部紀要 第52号] ([[Portable Document Format|PDF]])&rft.date=2001&rft.pub=宮内庁書陵部&rfr_id=info:sid/ja.wikipedia.org:北花内大塚古墳">  - リンクは宮内庁「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」。
  • 書陵部紀要 第58号 (PDF)』宮内庁書陵部、2007年。[https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/000/kiyo058b001.pdf 書陵部紀要 第58号] ([[Portable Document Format|PDF]])&rft.date=2007&rft.pub=宮内庁書陵部&rfr_id=info:sid/ja.wikipedia.org:北花内大塚古墳">  - リンクは宮内庁「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」。
    • 「飯豊天皇 埴口丘陵墳塋護岸その他整備工事に伴う事前調査」、「飯豊天皇陵にみられる石材の石種と採石地」。
  • 書陵部紀要 第59号 (PDF)』宮内庁書陵部、2008年。[https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/000/kiyo059b041.pdf 書陵部紀要 第59号] ([[Portable Document Format|PDF]])&rft.date=2008&rft.pub=宮内庁書陵部&rfr_id=info:sid/ja.wikipedia.org:北花内大塚古墳">  - リンクは宮内庁「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」。
    • 「飯豊天皇 埴口丘陵墳塋護岸その他整備工事に伴う立会調査」、「飯豊天皇 埴口丘陵より出土した倒木の樹種」。

関連項目

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外部リンク

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