劉禕 (北朝)
北魏から東魏にかけての学者・官僚
経歴
編集北魏の南兗州刺史の劉世明の子として生まれた[1][2]。学問を好み、とくに三礼に通じた。孝昌年間、太学博士となった。後に睢州刺史に転じた。任期を終えると、郷里に帰って父の病床に侍り、入朝しようとしなかった。父が死去すると、長いあいだ腰を下ろして動かなかったため、杖なしでは立ち上がれなくなった。高澄に招かれたが、病と称して応じなかった[2]。武定末年、冠軍将軍・中散大夫の位を受けた[1]。
子女
編集- 劉璇
- 劉玘
- 劉璞
- 劉瑗
- 劉瓚[2]
脚注
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。