別所守治
別所 守治(べっしょ もりはる、生年不明 - 元禄10年4月29日(1697年6月17日))は、江戸時代の旗本。但馬国八木藩主別所吉治の長男。初名は友治。通称は軍平、大蔵。養子に別所頼治。
父の吉治は初め豊臣秀吉に仕えた武将であり、文禄の役、伏見城築城などに当たった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが所領は安堵され、慶長20年(1615年)の大坂の陣の戦功により丹波国内に5000石を加増されて石高は2万石となるが、寛永5年(1628年)に仮病で参勤を怠ったことなどから、改易された。
守治も父に連座したが、慶安元年(1648年)に赦免され、のち千俵を与えられた。延宝2年(1674年)に致仕し、家督を養子の頼治に譲った。元禄10年(1697年)死去。法名は貞洽。墓所は東京都世田谷区の極楽寺称往院(当時は浅草に所在した)。
子孫は7百石の旗本として存続した。