内藤文成
内藤 文成(ないとう ふみしげ)は、江戸時代後期の大名。三河国挙母藩第7代(最後)の藩主。挙母藩内藤家11代。
内藤文成 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 安政2年12月20日(1856年1月27日) |
死没 | 明治34年(1901年)7月31日 |
改名 | 亀若(幼名)、文成、錦山(号) |
戒名 | 金光院殿進誉誠月錦山大居士 |
墓所 | 愛知県豊田市小坂町の洞泉寺 |
官位 | 従五位下・丹波守、従三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 三河挙母藩主 |
氏族 | 内藤氏 |
父母 |
内藤政文、内藤政成養女・増子 内藤政文 |
兄弟 | 文成、信子 |
子 |
一柳直徳正室 政共 |
生涯
編集安政2年(1855年)12月20日、6代藩主・内藤政文の長男として誕生した。安政5年(1858年)に父が死去したため家督を継ぐが、4歳の幼少のために藩政は家老らによる合議制で行なわれた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、尾張藩を通じて新政府に恭順し、食糧や人足の調達に努めた。明治2年(1869年)6月22日に版籍奉還により、挙母藩知事に任じられる。直後の9月19日に百姓一揆が起こったが鎮圧し、藩政改革に着手している。12月13日、従五位下・丹波守に叙位・任官する。
しかし改革における家禄改革の不満から、明治3年(1870年)6月24日に石井騒動、明治4年(1871年)5月に正学党事件が起こるなどしている。7月14日の廃藩置県により、藩知事を免官された。明治7年(1874年)6月10日、家督を養子の政共に譲って隠居する。明治34年(1901年)7月30日に従三位に昇叙されるが、7月31日に挙母の別邸である存心堂で死去した。享年47。
系譜
編集父母
側室
- 鈴尾 ー 新田氏
子女
- 一柳直徳正室
養子
当主 | ||
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先代 内藤政文 |
挙母藩内藤家 1858年 - 1874年 |
次代 内藤政共 |