佐藤 秀方(さとう ひでかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。読みは、ひでまさとも伝わる。佐藤清信の子。美濃国鉈尾山城主。

 
佐藤秀方
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 文禄3年7月20日1863年9月4日
別名 六左衛門尉(通称)、方秀
戒名 以安寺殿泰岑以安大居士[1]
墓所 岐阜県美濃市殿町の清泰寺
官位 従五位下、隠岐守
主君 織田信長信忠豊臣秀吉
氏族 佐藤氏
父母 父:佐藤清信
正室:金森定近の娘
清重方政
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生涯

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元亀元年(1570年)7月(永禄6年(1563年)説もあり[2])に父の清信が没すると家督を継ぎ、居城のある上有知他、5,000貫の知行地を有した[3]

織田信長が美濃国を制圧すると、服属して各地を転戦。永禄12年(1569年)の大河内城の戦い、元亀元年(1570年)の姉川の戦い比叡山包囲、天正2年(1574年)の伊勢長島攻めに参陣。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、徳川家康配下の酒井忠次につけられて、鳶巣山城を攻撃した。その後織田信忠付となり、東美濃衆の一員として、天正6年(1578年)には、越中戦線に派遣された(月岡野の戦い)。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、日根野弘就金森長近と去就を相談し、家康に款を通じたと見られ、家康より近況を伝える書状を受けている[3]。その後、織田信孝羽柴秀吉の対立が深まると秀吉に与し[4]、天正11年(1583年)には森長可と連合して、信孝に付き立花山に籠もった遠藤慶隆を降し(立花山の戦い)、秀吉の幕下に入って鉈尾山城を安堵され、武儀郡の大半2万5000石を領有することとなった[5]

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、羽柴方として内窪山砦を守備した[3]

天正13年(1585年)、紀伊根来攻め千石堀城の戦い)に参加。同年、秀吉の命による金森長近の三木自綱攻めを支援。自綱を降した後、秀吉は長近に飛騨国を与えようとするが、長近が居城の越前大野城を出るのに難色を示したため、秀方が萩原諏訪城にあって一時預かることになった(長近は翌年に了承)。こうしたことから長近との連携が深まり、長近の姉を妻として両者は姻戚関係となった[1]

天正18年(1590年)の小田原征伐では、馬廻組頭として600人を率いて参加[1](ただし、次男の方政が父の代理で出陣したともされ、それは当時秀方がすでに隠居しており、兄清重が病弱だったためと考えられる[6])。文禄の役にも従軍した。

文禄2年(1593年)に隠居するが、当時、上有知・関に1万8000石と河内金田の2万石を領していたという[3]。隠居所は以安寺山麓であった[1]

文禄3年7月20日(1863年9月4日)、死去(常在寺記録・佐藤金森由緒書)[3]

脚注

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  1. ^ a b c d 「佐藤氏と金森氏」『美濃市史』 通史編 上巻、美濃市、1979年、247 - 248頁。 
  2. ^ 「初代佐藤六左衛門尉清信」『美濃市史』 通史編 上巻、美濃市、1979年、241 - 243頁。 
  3. ^ a b c d e 「佐藤秀方」『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、214 - 215頁。ISBN 9784642014571 
  4. ^ 「本能寺の変後の美濃国の形勢」『美濃市史』 通史編 上巻、美濃市、1979年、243 - 245頁。 
  5. ^ 「立花山の戦」『美濃市史』 通史編 上巻、美濃市、1979年、245 - 246頁。 
  6. ^ 「三代佐藤才次郎方政」『美濃市史』 通史編 上巻、美濃市、1979年、248 - 249頁。