伏水修
日本の映画監督
伏水 修(ふしみず おさむ、1910年12月5日[1] - 1942年7月9日[2])は、日本の映画監督。本名、伏水次男[3]。
ふしみず おさむ 伏水 修 | |
---|---|
1942年 左は原節子 | |
本名 | 伏水次男 |
生年月日 | 1910年12月5日 |
没年月日 | 1942年7月9日(31歳没) |
出生地 | 大阪府大阪市[1] |
職業 | 映画監督 |
関西学院大学卒業。1932年1月に日活現代劇監督部入社、1934年3月にP. C. L.(東宝の前身)演出課に移る。1942年、病気のため死去[3]。
監督作品
編集公開日 | タイトル | 担当 | 製作 |
---|---|---|---|
1936年1月15日 | 『あきれた連中』 | 監督[5] | P. C. L. |
1936年3月26日 | 『歌ふ弥次喜多』 | 監督[注釈 1] | P. C. L. |
1936年8月11日 | 『唄の世の中』 | 監督[7] | P. C. L. |
1936年12月1日 | 『東京ラプソディ』 | 監督[5] | P. C. L. |
1937年2月1日 | 『風流演歌隊』 | 監督[5] | P. C. L. |
1937年7月11日 | 『白薔薇は咲けど』 | 監督[5] | P. C. L. |
1937年12月21日 | 『たそがれの湖』 | 監督[5] | 東宝映画東京 |
1938年4月21日 | 『世紀の合唱 愛国行進曲』 | 監督[5] | 東宝映画東京 |
1938年12月7日 | 『軍港の乙女達』 | 監督[8] | 東宝映画東京 |
1939年4月1日 | 『船出は楽し』 | 監督[5] | 東宝映画京都 |
1939年10月31日 | 『東京の女性』 | 監督[5] | 東宝映画東京 |
1939年12月21日 | 『君を呼ぶ歌』 | 監督[5] | 東宝映画東京 |
1940年6月5日 | 『支那の夜 前篇』 | 監督[5] | 東宝映画東京、中華電影 |
1940年6月15日 | 『支那の夜 後篇』 | 監督[5] | 東宝映画東京、中華電影 |
1942年2月4日 | 『青春の気流』 | 演出[5] | 東宝映画 |
脚注
編集- 注釈
- 脚注
- ^ a b 伏水修 - 武蔵野美術大学 美術館・図書館 イメージライブラリー所蔵 映像作品データベース、2021年10月11日閲覧
- ^ 東宝(株)『東宝五十年史』(1982.11)|渋沢社史データベース、2023年4月10日閲覧
- ^ a b 『映画年鑑 昭和18年』日本映画雑誌協会、1943年、p.523。
- ^ 伏水修 - 日本映画データベース、2021年10月11日閲覧
- ^ a b c d e f g h i j k l allcinema.
- ^ “歌ふ弥次喜多”. KINENOTE. キネマ旬報社. 2021年12月9日閲覧。
- ^ “唄の世の中”. KINENOTE. キネマ旬報社. 2021年12月9日閲覧。
- ^ “軍港の乙女達”. KINENOTE. キネマ旬報社. 2021年12月9日閲覧。
参考文献
編集外部リンク
編集- 伏水修 - allcinema
- 伏水修 - 日本映画データベース
- 伏水修 - KINENOTE
- Osamu Fushimizu - IMDb
- Osamu Fushimizu - TMDb