伊藤昇 (作曲家)
日本の作曲家
伊藤 昇(いとう のぼる、1903年1月31日 - 1993年2月7日)は、日本の作曲家、トロンボーン奏者[1]。伊藤能矛留のペンネームも用いた[1]。次男はレーシングライダーとして知られ,ヤマハに初の世界GP優勝をもたらした伊藤 史朗。
伊藤 昇 | |
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生誕 | 1903年1月31日 |
出身地 | 日本 長野県松本市 |
死没 | 1993年2月7日(90歳没) |
ジャンル | クラシック |
職業 | 作曲家・トロンボーン奏者 |
担当楽器 | トロンボーン |
経歴
編集長野県松本市出身[1]。松本商業学校中退、各種学校アテネ・フランセ卒業[1]。1919年から海軍軍楽隊でトロンボーン奏者として活動。除隊後は山田耕筰率いる日本交響楽協会に参加し、山田に作曲と対位法を師事した[1]。その後、近衛秀麿率いる新交響楽団で首席トロンボーン奏者を務め、そのかたわら菅原明朗に作曲を学び、新興作曲家連盟に参加した。作風はダリウス・ミヨーの多調、アルノルト・シェーンベルクの無調、アロイス・ハーバの微分音、ジャズなどを取り入れた前衛的なものであった。その後1930年代半ばから1940年半ばにかけて映画音楽の分野で活躍した。1936年のベルリンオリンピックの芸術競技(音楽-作曲)の日本代表だったが、選外佳作に留まり敗退している。
作品
編集管弦楽曲
編集- マドロスの悲哀への感覚(1930年)[2]
- 二つの抒情曲(1930年)[3] - ピアノ曲「黄昏の単調」「陰影」をオーケストレーション
- 『スポーツ・ニッポン』 (1936年) ベルリンオリンピック大会芸術競技 (音楽) 出品作品[4]
マンドリンオーケストラ
編集- 黄昏の単調(1927年) - 同名のピアノ曲を編曲
- 陰影
室内楽曲
編集- 弦楽四重奏曲「四分音階による幼年の詩」(1930年)
- 打楽器のための音詩「曠野」
歌曲
編集- 太陽に歌う(1930年)
- 古きアイヌの歌の断片「シロカニペ ランラン ピシカン」(1930年)[5]
ピアノ曲
編集- 黄昏の単調(1927年)
- 陰影
映画音楽
編集参考文献
編集- 秋山邦晴『日本の映画音楽史 I』(田畑書店、1974)
- 秋山邦晴著・林淑姫編『昭和の作曲家たち 太平洋戦争と音楽』(みすず書房、2003)
- 大原祐治『文学と音楽の交錯 - 出発期における坂口安吾』(「千葉大学大学院人文社会科学研究」第20号、2010年)
脚注
編集出典
編集- ^ a b c d e 『日本の作曲家 : 近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年6月、71-72頁。ISBN 978-4-8169-2119-3。
- ^ “マドロスの悲哀への感覚 | 東京音楽大学付属図書館ニッポニカ・アーカイヴ”. 東京音楽大学付属図書館ニッポニカ・アーカイヴ | 日本のオーケストラ作品演奏のために (2015年12月24日). 2023年1月16日閲覧。
- ^ “二つの抒情曲 | 東京音楽大学付属図書館ニッポニカ・アーカイヴ”. 東京音楽大学付属図書館ニッポニカ・アーカイヴ | 日本のオーケストラ作品演奏のために (2015年7月14日). 2023年1月16日閲覧。
- ^ 日本近代音楽館レクチャーコンサートシリーズVIII「オリンピックと音楽」プログラムパンフレット (2019.12.14)
- ^ “古きアイヌの歌の断片「シロカニペ ランラン ピシュカン」 | 東京音楽大学付属図書館ニッポニカ・アーカイヴ”. 東京音楽大学付属図書館ニッポニカ・アーカイヴ | 日本のオーケストラ作品演奏のために (2014年8月11日). 2023年1月16日閲覧。