仁科盛能
仁科 盛能(にしな もりよし)は、戦国時代の武将。信濃国安曇郡森城主。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 盛明、通称:孫三郎 |
戒名 | 道外 |
官位 | 正五位下、弾正少弼、安芸守 |
主君 | 小笠原長時→武田信玄 |
氏族 | 仁科氏 |
父母 | 父:仁科盛国[1] |
兄弟 | 盛能、青柳清長、小岩盛親、飯森盛春、渋田見盛家 |
子 |
盛道、盛孝、盛康、 仙操院殿梅室春光大姉(小笠原長時正室) |
生涯
編集仁科氏は安曇郡の国人。仁科盛直の代に文明12年(1480年)の穂高合戦において信濃守護・小笠原長朝に敗北して一時諏訪氏を頼るが、両氏系図によれば盛能は小笠原長時に娘を迎え臣従し、のち長時と共に信濃に侵攻してきた甲斐国の武田晴信に抵抗する。
天文17年(1548年)には上田原の戦いで武田晴信が更級郡葛尾城主・村上義清に敗れたのに乗じて、小笠原長時らと武田領の下諏訪へ侵攻する。しかし長時が盛能の諏訪支配を認めなかったことから対立し、早々に兵を引き上げた。このことが同年の塩尻峠の戦いでの小笠原方の大敗に繋がった。
『高白斎記』天文19年(1550年)7月15日条によれば、仁科上野介(盛政か)と共に駒井高白斎と交渉し、小笠原長時が追放されると武田家に出仕した。なお、同年には盛能の判物状が発給されており、仁科氏独自の領域支配を示す文書となっている。以来、『高白斎記』や弘治2年(1556年)の仁科神明宮棟札では名前が見られないことから、盛康へと当主交代がされたと考えられている。
脚注
編集出典
編集- 『大町市史』
- 大貫茂紀『戦国期境目の研究』高志書院、2018年