人民議会 (東ドイツ)

旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)の立法府

人民議会(じんみんぎかい、ドイツ語: Volkskammer)は、かつてのドイツ民主共和国(東ドイツ)の立法府

人民議会
Volkskammer
第1期 - 第10期
紋章もしくはロゴ
種類
種類
一院制(1958年までは参議院ドイツ語版との二院制
沿革
設立1949年
廃止1990年10月3日
前身国会英語版
後継連邦議会
役職
初代 議長
第5代 議長
(最後の議長)
定数500(最末期は400)
議事堂
東ドイツの旗 東ドイツ東ベルリン
共和国宮殿

"Kammer"はドイツ語で「部屋」の意味(英語の"chamber"にあたる)だが、歴史的にはドイツ革命直後のザクセン王国議会が、1919年2月から1920年11月まで、それまでの"Sächsischer Landtag"に代わって"Sächsische Volkskammer"の呼称を用いていた。

概要

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1976年以降に人民議会の議場が置かれた共和国宮殿
 
1950年の第1回人民議会
 
1989年11月13日 ベルリンの壁崩壊直後の人民議会本会議

ドイツ民主共和国憲法によれば人民議会は国民によって選出された最高の国家権力機関であり、憲法の改正、法律の制定、国家評議会国家評議会の議長国家元首)・閣僚評議会ドイツ語版内閣に相当)・国防評議会ドイツ語版議長(国防委員会委員長)・最高裁判所ドイツ語版の所長および判事・検事総長の選出、経済計画の決定などの権限を持つとされていた。また、アメリカの連邦議会日本の国会などのように分野別の委員会制度が導入されていた。

しかし、実態は1989年民主化以前は憲法で「国家を指導する」とされていたドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会政治局で決定した内容を追認する役割しか持っていなかった。議会の本会議が開催されるのは年に3,4回程度であり、法案や人事案も殆どが満場一致の賛成で承認されていた[1][注釈 1]。また、後述するように議員の選出方法も形式的なものであり、人民議会は「国民が選出した代表による民主政治」という建前を示すためのものでしかなかった[1]

なお、初期には人民議会の他に各州の代表からなる共和国参議院ドイツ語版も存在したが、1952年以降は中央集権政策によって州が14のに再編され、1958年には共和国参議院も廃止された。

議会組織

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歴代議長

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氏名 出身政党 就任年月日 退任年月日
1 ヨハネス・ディークマンドイツ語版 ドイツ自由民主党 1949年10月7日 1969年2月22日
2 ゲラルト・ゲッティングドイツ語版 キリスト教民主同盟 1969年5月12日 1976年10月29日
3 ホルスト・ジンダーマン ドイツ社会主義統一党 1976年10月29日 1989年11月13日
4 ギュンター・マロイダ ドイツ民主農民党 1989年11月13日 1990年4月5日
5[注釈 2] ザビーネ・ベルクマン=ポール キリスト教民主同盟 1990年4月5日 1990年10月2日

選挙と議席

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選挙

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選挙は下記の10回行われている。

民主化された後に行われた1990年の選挙以外は「国民戦線ドイツ語版」を形成する5つの政党や団体ごとに議席数が決まった統一名簿が作成され、それに賛成か反対かを問うという形式であった。このため選挙による党派の議席変動などというものは生じず、常にSEDが最大勢力であるようになっていた。

憲法第54条では「人民議会は国民により、自由普通平等秘密の選挙において」選出されると規定されていたが、 実際の選挙の投票方法は、

  1. 有権者が投票所に行くと投票用紙を交付される。
  2. 賛成の時は何も書かずに、そのまま投票用紙を投票箱へ入れる。
  3. 反対の時は記載台まで行き、投票用紙に印を書いてから、投票用紙を投票箱へ入れる。

というものであり、反対の時だけ記載台に行くことになるため誰が反対票を投じたのかすぐに分かるようになっていた[2][注釈 3][注釈 4]。また棄権すると棄権者は体制への反対派とみなされて地位を失ったり、西ドイツの親戚を訪ねようとしても出国ビザが発給されないなどの嫌がらせを受けた[3]。このため、毎回投票率は99%以上、賛成率も99%であった。なお、大都市部では相互の監視が弱いため棄権率・反対率はやや高めであり、最も棄権率・反対率が高かったのは東ベルリン[2]であった。

議席配分

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1967年の第5回選挙以降は下記の議席数に固定されていた。それ以前も数に違いはあるがSEDが最大勢力で固定されていることには変わりが無い。 東ベルリンは建前上はソ連占領地区であったため東ドイツの議会に直接議員を送ることができず、東ベルリン市の市議会から代表を送っていたが、1981年からは東ベルリンも直接選出に切り替えている。

1986年から農民相互援助団ドイツ語版が加わり、諸団体の議席数が変更された。

最初期はキリスト教民主同盟、自由民主党もある程度の力を持っていたが、SEDに反対する幹部の多くは追放されて西ドイツへ亡命したために衛星政党となっていった。国家民主党と民主農民党は最初からSEDの肝いりで作られた政党である[4]。政党以外の各団体も、FDJはSEDの下部組織であり、またFDGBの会長がSEDの政治局員[5]であるなど、実質的にはSEDの傘下にあった。

1990年の議席

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最初で最後の自由選挙となった1990年人民議会選挙後の議席。

議事堂

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戦前の帝国議会議事堂は戦後西ベルリンに属したため、東ドイツ人民議会では使用不可能であった。1950年から1976年までは東ベルリン・ミッテ区の赤の市庁舎近くにあるランゲンベック・フィルヒョウ・ハウスドイツ語版(Langenbeck-Virchow-Haus)に置かれていた。1976年からは同年に竣工した共和国宮殿の小ホールを使用するようになった。

脚注

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注釈

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  1. ^ キリスト教民主同盟の議員が宗教的な理由から妊娠中絶を認める法案に反対票を投じた例があるが、これが1989年までで唯一反対票が出た法案である。(斉藤瑛子『世界地図から消えた国-東ドイツへのレクイエム』P135)
  2. ^ 国家元首を兼務。
  3. ^ この投票方法であるがゆえに、1989年5月7日の地方議会選挙では選挙を監視していた市民グループが投票用紙に記入しに行った人を数えて割り出した反対票の数に対して公式発表された反対票が少なかったために、政府が選挙結果を不正操作したことが判明した(永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』日本放送出版協会 1990年 P93-94)
  4. ^ 現在でも東ドイツ同様事実上の一党独裁制である北朝鮮最高人民会議はこのような方法の選挙が行われている。
  5. ^ 厳密には共産主義体制時代の衛星政党であるドイツキリスト教民主同盟であり、西ドイツの同名政党とは別団体だが、この時点では西ドイツのドイツキリスト教民主同盟の支援を受けており、実質的に西ドイツ側の傘下の組織となっていた。
  6. ^ 第二次世界大戦直後の旧ソ連占領地区ではドイツ社会民主党はドイツ共産党と半強制的に合併させられドイツ社会主義統一党となっていたが、西ドイツのドイツ社会民主党の支援を受けて再建された。
  7. ^ ドイツ社会主義統一党が、ごく短期間は社会主義統一民主社会党(SED-PDS)を名乗ったのち、選挙前に再改名したもの。統一後、2007年に左翼党となる。
  8. ^ 旧衛星政党であるドイツ自由民主党(1990年2月に LDPD を LDP に改めた)と東ドイツ自由民主党 (F.D.R der DDR) およびドイツ・フォーラム党の3党で結成された選挙連合。
  9. ^ 市民団体新フォーラム民主主義を今平和と人権イニシアティヴ連合体。1993年に旧西ドイツ側の緑の党と統合し、同盟90/緑の党となっている。
  10. ^ ドイツ統一後、西ドイツ側の緑の党と合併。
  11. ^ 一部はのちに民主社会党緑の党と提携。

出典

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  1. ^ a b 仲井『もうひとつのドイツ』P169
  2. ^ a b 仲井『もうひとつのドイツ』P171
  3. ^ 仲井斌『もうひとつのドイツ』P170
  4. ^ 仲井『もうひとつのドイツ』P166-167
  5. ^ 仲井『もうひとつのドイツ』P205

参考文献

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  • 仲井斌『もうひとつのドイツ : ある社会主義体制の分析』朝日新聞社、1983年3月20日。全国書誌番号:83026765NDLJP:12182380 
  • サイマル出版会 編『行ってみたい東ドイツ : DDRの魅力』サイマル出版会、1983年10月。NDLJP:12181524 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)
  • 斎藤瑛子『世界地図から消えた国-東ドイツへのレクイエム』(1990年 新評論)
  • 永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』(1990年 日本放送出版協会