事大党じだいとう: 사대당、サテダン)は李氏朝鮮末期の保守的な党派に対する、開化派からの呼称。別称守旧派1882年壬午事変から日清戦争に至るまで朝鮮の政界を10年間支配した。

事大党
各種表記
ハングル 사대당 / 수구파
漢字 事大黨 / 守舊派
発音 サテダン / スクパ
日本語読み: じだいとう / しゅきゅうは
ローマ字転写: Sadaedang / Sugupa
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概要

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1882年壬午事変で大院君を退けた閔氏一族を中心に形成され、日本と結んでからの自主独立政治の革新を主張する独立党(開化派)に対し、伝統を守って宗主国の清への臣属を主張し政権の維持を図った。閔一族が袁世凱邸に特使を度々派遣、その意見を諮詢したことから、事大党には袁が推薦した閔慶植、閔泳徽閔泳煥趙秉式らが属した。1884年甲申政変の後さらに清に接近し、優勢であったが、日清戦争に清が敗北し、乙未事変が起こるとともに衰え、多くは親露派に変わった。

黄文雄は、「朝鮮が清国の属国であったことは、『万国公法』(国際法)や当時の清と李朝朝鮮の政治軍事外交関係の現実に照らし合わせれば明らかな国際常識だった」として、「李朝朝鮮の末期に登場した開化派は、清への事大をやめて独立を獲得しようとしたため、事大派(属国派)に対抗する「独立派」と称されていたことも忘れてはならない」と評している[1]

脚注

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  1. ^ 黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社、2003年10月31日、136頁。ISBN 978-4863042158 

関連項目

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