中村時万
?-1881, 幕末の幕臣、和算家。『賽祠神算』
中村 時万(なかむら ときつむ、生年不詳 - 明治14年(1881年)10月24日)は、幕末の幕臣(新規旗本)。通称は為弥(ためや)、官途は出羽守、のちに石見守。永錫と号した。
嘉永6年(1854年)長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンと幕府全権の川路聖謨、筒井政憲との交渉に列しこれを補佐した。安政2年(1855年)5月勘定組頭から勘定吟味役、同3年10月には外国貿易取調掛となり、同4年下田奉行(幕府最後の任官)となりアメリカ総領事ハリスと交渉をし、同職の井上清直と全9か条からなる日米追加条約を結んだ。そして、万延元年(1860年)普請奉行となったのち、元治元年(1864年)5月8日から慶応元年(1865年)9月まで佐渡奉行[1] を務めた。知行は200俵、役料1500俵100人扶持。その後は公職を退き勤仕並寄合となる。明治14年10月24日没。戒名は至誠院精譽求時道萬居士。墓所は四谷の法蔵寺。
注釈
編集参考文献
編集- 日本人名大事典(講談社)
- 越佐人物誌(牧田利平編 野島出版 昭和47年)
- 『全国版幕末維新人物事典』(学研 歴史群像編集部 編集)