上杉憲藤
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。犬懸上杉家の祖・初代。中務大輔、修理亮、弾正少弼。子に三浦貞清(安芸守)の正室
上杉 憲藤(うえすぎ のりふじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。犬懸上杉家の祖。足利尊氏・直義の母方の従弟にあたる。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 文保2年(1318年) |
死没 | 延元3年/建武5年3月15日(1338年4月5日) |
戒名 | 古岩道涼 |
官位 | 中務大輔、修理亮 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利尊氏 |
氏族 | 犬懸上杉家 |
父母 | 父:上杉憲房 |
兄弟 |
憲顕、憲藤、重行、高師泰正室 養兄弟:重能・重兼(勧修寺道宏子) |
妻 | 上杉重顕女 |
子 | 朝房、朝宗、三浦貞清正室 |
略歴
編集足利尊氏、その子・千寿王に仕えた。延元3年/建武5年(1338年)2月には尊氏に従って上洛し、摂津国で南朝方の北畠顕家と戦って奮戦する。しかし3月15日、摂津渡辺の戦いで奮戦したものの戦死した。享年21。[1]
幼い遺児二人(上杉朝房、上杉朝宗)が石川覚道に保護されて成長し[2] 、やがて上杉一門の一翼を担い、兄弟及びその子(上杉朝宗の子・上杉氏憲)が関東管領に就任。 その頃は犬懸上杉家と呼ばれ、山内上杉家を凌ぐ勢力を持ったが、上杉氏憲が上杉禅秀の乱を惹き起こし、結果的に敗れ、応永24年(1417年)に犬懸上杉家は滅亡した。
なお、『鎌倉大日記』には延元2年/建武4年(1337年)に関東執事に任じられたとするが、それを裏付ける根拠が無く、発給文書などからみても、初代執事の斯波家長の没後は上杉憲顕が関東執事に就任したと考えられ、憲藤が執事に就任したというのは事実でないと考えられる[3]。
跡を子・朝房が継いだ。
脚注
編集- ^ 討死した年、場所、年齢が上杉系図によって記載が異なる。
- 憲藤 犬懸元祖・修理亮・中務少輔 「歴応元年(1338年)3月15日於信州討死、三十一歳、法名長興寺殿古岩道淳」【「中世史論集1(関東上杉氏の研究)」P254で引用の犬懸上杉氏系図 湯浅学 岩田書院2009.5】
- 憲藤 中務少輔 称四条上杉 「建武三年 (1336年)3月15日 於渡部河為尊氏防敵隕命年廿一法名道淳古岩」【「上杉家御年譜23」上杉家系図P20】、
- 中務少輔 憲藤 「建武三年 (1336年)3月15日、 於渡部河討死、廿一」
- ^ 父討死後、幼い兄弟が石川覚道に保護されたことは異なる上杉系図でも共通して記されている。
- 朝房 「父討死時、家人石川覚道抱之、于時幸松(上杉朝房)四(十四イ)歳、幸若(上杉朝宗)二(十二イ)歳、家人千坂子二歳、和久子四歳相従之、共於鎌倉成人・・」【「中世史論集1(関東上杉氏の研究)」P254で引用の犬懸上杉系図 湯浅学 岩田書院2009.5】
- 朝房 「憲藤討死後石川覚道抱幸松(上杉朝房)(時四歳)幸若(上杉朝宗)(時二歳)謁尊氏時家臣千坂子二歳和久子四歳相従之・・」【「上杉家御年譜23」上杉家系図P20】
- 弾正小弼 朝房 「父憲藤討死後、石川覚道、幸松(上杉朝房)四歳、幸若(上杉朝宗)二歳、抱両君、謁尊氏将軍、供奉臣子、千坂子二歳、和久四歳、二人是也、・・」【上椙系図大概「中世武家系図の史料論」下巻 山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜 P225-226 峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大編 高志書院 2007.10 】
- ^ 小要博「関東管領補任沿革小稿 その(一)」『法政史論』5号、1978年