冷泉家

日本の旧公家・華族の一族
上冷泉家から転送)

冷泉家(れいぜいけ)は、藤原北家御子左家の流れを汲む公家華族だった家。上冷泉家と下冷泉家があり、公家としての家格はいずれも羽林家、華族としての家格は上冷泉が伯爵家、下冷泉が子爵家だった[2]歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承している。通字は「為(爲)」(ため)。

冷泉家
家紋
酢漿草かたばみ雪笹ゆきささ
本姓 藤原北家御子左流支流[1]
家祖 冷泉為相(上冷泉家)
冷泉持為(下冷泉家)
種別 公家羽林家
華族伯爵)-上冷泉
華族(子爵)-下冷泉
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
京都府(上冷泉)
東京府(下冷泉)
著名な人物 冷泉為村
支流、分家 藤谷家(羽林家子爵)
今城家(羽林家・子爵)
松林家(男爵)
(いずれも上冷泉分家)
凡例 / Category:日本の氏族

歴史

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冷泉家発足から上下冷泉家への分裂まで

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御子左家権大納言藤原為家の四男である権中納言冷泉為相を祖とする[1]。家名は為相が二条京極北の冷泉小路に住したことに由来する[1]

なお為家の長男為氏の家系は御子左家二条家)、次男為教の家系は京極家となっている[1]。為家の没後、為相に譲られた播磨国細川庄、また歌論・歌風、大覚寺統持明院統の両皇統の対立、勅撰集などをめぐって二条家と冷泉家の間で対立が起きた[1][3]。この争いのために為相はしばしば鎌倉に下向したので鎌倉幕府と関係を深め、鎌倉歌壇に影響力を持つようになり、将軍久明親王の和歌所にも伺候した[4]

南北朝時代のうちに二条家と京極家は絶家し、冷泉家のみが残ることとなった[1]。室町時代の為尹権大納言に昇り、これ以降権大納言が冷泉家の極官となる[4]。為尹が定家の正統と見なされるようになったためと考えられる[4]

為尹の長男為之は将軍足利義教に疎まれて不遇となり、為尹の死後、細川庄の荘園は為之の弟持為に譲られ、長男である為之には細川庄の得分30石のみが譲られた。これが原因で冷泉家は為之の家系(上冷泉)と持為の家系(下冷泉)に分立した[4]

上冷泉家

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封建時代の上冷泉家

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上冷泉家の公家としての家格は羽林家[1]旧家[5]外様[1]。家業は和歌・有職故実[1]

室町時代を通じて足利将軍家と特別な関係をもった下冷泉の方が勢力をもち、上冷泉は不遇だった[6]

戦国時代になると経済的に困窮し、為和為益駿河守護大名今川氏を頼って駿府に下向している[7]

天正13年(1585年)には為益の子為満が世話役の山科言継や兄の四条隆昌とともに所領問題をめぐって正親町天皇勅勘を蒙り[8]、しばらく京を離れて大坂に住したが、慶長5年(1600年)に徳川家康の執奏で勅勘宥免があり帰京した[4]

元和5年(1619年)に為満が死去した後、家定の『明月記』など冷泉家伝来の典籍が流出していたことを恐れた後水尾天皇により冷泉家の文書が勅封された。100年以上後の享保6年(1721年)の霊元院院宣まで勅封が続いた[9][10]

為満は権大納言中山親綱の次男為親を養子に迎えたが、その後に実子の為頼が生まれたため、為親は分家した(俗に中冷泉家と呼ばれ、後に今城家となった)を起こした[4]。また為満の次男為賢も分家して藤谷家を起こした[4]

為綱の代に堂上歌壇における上冷泉家の地位は確固たるものとなり、その息子為久により関東にも冷泉門流が広がった。さらにその子為村によって全国に広がり、和歌宗匠家としての地位を不動とした[9]

江戸時代の家領は300石[11][注釈 1]。屋敷は今出川北御門西へ入ったところにあった[5]。家臣は雑掌として近藤家、中川家[5]菩提寺真如堂[5]

明治以降の上冷泉家

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明治維新後、公家のほとんどは東京へ移住したが、上冷泉家は京都御所の殿掌に任じられたため京都に残った[12]。空家となった公家町の公家屋敷は公園にするため取り壊しとなり、京都御苑となったが、上冷泉家の屋敷は今出川小路の北にあったために残され、大正時代に市内電車建設のため敷地の一部が削られたものの、現在まで京都に残る唯一の公家屋敷となっている(上冷泉の屋敷は天明の大火で焼失しているので寛政2年に再建されたもの)[12]

明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると上冷泉家も公家として華族に列した[13][14]

維新後に旧禄に替えて支給された家禄は、現米で310石[15][注釈 2]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万1239円7銭3厘(華族受給者中369位)[17]。明治14年時の為紀の住居は京都市上京区玄武町にあった[18]。当時の家令は平清水清平[18]

明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると大納言宣任の例多き旧堂上家[注釈 3]として為紀伯爵に叙せられた[20]

為紀は貴族院の伯爵議員に当選して務めるとともに平安神宮宮司を務めた[21]

その子為系の代に冷泉伯爵家の邸宅は京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町にあった[21]

下冷泉家

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封建時代の下冷泉家

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下冷泉家の公家としての家格は羽林家[22]旧家[5]外様[22]。家業は和歌・有職故実[22]

室町時代には上冷泉家よりも、足利将軍家と特別な関係をもった下冷泉の方が栄えたが、応仁の乱後頃より室町幕府の衰退と共に衰退した[23]

戦国時代には上冷泉と同様に戦乱の京都を離れ、地方に在国していた[22]三木合戦冷泉為純冷泉為勝が戦死した後に一時中絶したが、為純の庶子の藤原惺窩が尽力し、為勝や惺窩らの弟の為将を当主に据えた。為将の後は勅命により惺窩の子冷泉為景が正保4年(1647年)に継承した[22]

江戸時代の家領は150石[22][注釈 4]。屋敷は二階町東側に所在した[5]

明治以降の下冷泉家

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明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると下冷泉家も公家として華族に列した[13][14]

維新後に旧禄に替えて支給された家禄は、現米で260石5斗[15][注釈 5]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万1800円88銭3厘(華族受給者中337位)[17]。明治14年時の為柔の住居は東京市麹町区富士見町にあった[18]。当時の家令は田中正武[18]

明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、下冷泉家は同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 6]として為柔子爵を授けられた[24]

その子為勇は貴族院の子爵議員に当選して務めた。研究会所属[25]。彼の代に冷泉子爵家の邸宅は東京市中野区本町通にあった[25]

歴代当主

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上冷泉家

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代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考
1   冷泉為相
(1263年-1328年)
藤原為家の子 正二位 権中納言
2   冷泉為秀
(?-1372年)
先代の次男 従二位 権中納言
3   冷泉為尹
(1361年-1417年)
先代の子 正二位 権大納言
4   冷泉為之
(1393年-1439年)
先代の長男 無し
(贈正二位)
存命中官職無し(贈権大納言)
足利義教の圧力で不遇
5   冷泉為富
(1425年-1497年)
先代の子 正二位 権大納言
6   冷泉為広
(1450年-1526年)
先代の子 正二位 権大納言
7   冷泉為和
(1486年-1549年)
先代の子 正二位 権大納言
8   冷泉為益
(1516年-1570年)
先代の子 正二位 権中納言
9   冷泉為満
(1559年-1619年)
先代の子 正三位 権大納言
10   冷泉為頼
(1592年-1627年)
先代の子 従三位 左近衛中将
11   冷泉為治
(1626年-1650年)
先代の子 従五位下
12   冷泉為清
(1631年-1668年)
先代の養子
(為頼弟藤谷為賢子)
正四位下 左近衛中将
13   冷泉為綱
(1654年-1722年)
先代の子 従二位 権中納言
14   冷泉為久
(1686年-1741年)
先代の子 正二位 権大納言
15   冷泉為村
(1712年-1774年)
先代の子 正二位 権大納言
16   冷泉為泰
(1736年-1816年)
先代の子 正二位 権大納言
17   冷泉為章
(1752年-1822年)
先代の子 正二位 権大納言
18   冷泉為則
(1777年-1848年)
先代の子 正二位 権大納言
19   冷泉為全
(1802年-1845年)
先代の子 正三位 参議
20   冷泉為理
(1824年-1885年)
先代の子 正二位 権中納言
21   冷泉為紀
(1854年-1905年)
先代の子 正二位 伯爵
貴族院議員
伊勢神宮大宮司
22   冷泉為系
(1881年-1946年)
先代の子 正三位[21] 伯爵
23   冷泉為臣
(1911年-1944年)
先代の子
24   冷泉為任
(1914年-1986年)
23代為系の婿養子
(西四辻公堯の子
為系娘布美子の夫)
1980年にNHK特集で紹介[26]
25   冷泉為人
(1944年-存命中)
先代の婿養子
(松尾正雄の子
為任娘貴実子の夫)

下冷泉家

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代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考
1 冷泉持為
(1401年-1454年)
冷泉為尹の次男 従二位 権大納言
初名持和
足利義持偏諱
2 冷泉政為
(1446年-1523年)
先代の子 正二位 権大納言
初名成為
足利義成(義政)偏諱
3 冷泉為孝
(1475年-1543年)
先代の子 正二位 権中納言
4 冷泉為豊
(1504年-?)
先代の子 従三位 左近衛中将
5 冷泉為純
(1530年-1578年)
先代の子 従三位 参議
所領播磨細川庄下向
三木合戦で戦死
6 冷泉為勝
(1557年-1578年)
先代の子 正五位下 左近衛少将
父とともに戦死
7 冷泉為将
(1572年-1647年)
先代の弟
(為純の子)
従四位下 侍従
庶兄藤原惺窩の尽力で再興
8 冷泉為景
(1612年-1652年)
先代の甥
(藤原惺窩の子)
従四位下 侍従
勅命により継承
9 冷泉為元
(1641年-1702年)
先代の子 従四位下 左近衛少将
10 冷泉為経
(1654年-1722年)
先代の養子
(葉室頼業子)
正二位 権大納言
初名頼広・為直
11 冷泉為俊
(1682年-1717年)
先代の子 正四位下 左近衛中将
12 冷泉宗家
(1702年-1769年)
先々代の子 正二位 権大納言
13 冷泉為栄
(1738年-1782年)
先代の子 正二位 権中納言
14 冷泉為訓
(1738年-1782年)
先代の養子
(風早公雄子)
正二位 権大納言
15 冷泉為起
(1790年-1831年)
先代の養子
(勧修寺経逸子)
正三位 右近衛権中将
16 冷泉為行
(1821年-1855年)
先代の子 従四位上 侍従
17   冷泉為柔
(1846年-1894年)
先代の子 従三位 子爵
18   冷泉為勇
(1870年-1946年)
先代の子 従二位[25] 子爵
貴族院議員
19 冷泉為安
(1913年-1981年)
先代の子 子爵
20 冷泉為弘
(1941年-)
先代の子

系譜

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※ 実線は実子、点線(縦)は養子。

藤原為家
 
 
 
冷泉為相1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為秀2為成
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為尹3為邦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上冷泉家為員下冷泉家
 
 
 
 
 
為之4持為1
 
 
 
 
 
為富5政為2
 
 
 
 
 
為広6為孝3
 
 
 
 
 
為和7為豊4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為益8広橋兼真甘露寺経元為純5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為満9四条隆昌為将藤原惺窩六条俊久為勝6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為頼10藤谷家冷泉為景為将7
 
 
 
 
 
 
 
為治11藤谷為賢為景8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為清12冷泉為清山科言行為条為元9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為綱13為茂入江家為経10[注釈 7]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為久14日野光茂柳原光綱[注釈 8]為信竹内惟永入江相茂入江家誠入江相尚為俊11宗家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為村15為香入江相永相敬宗家12
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為泰16三室戸光村入江為良為時相茂為晴為栄13藤波季忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為章17為敦家誠為夏為訓14[注釈 9]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為則18三室戸緝光為脩相永為起15[注釈 10]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為正為全19松林為成為知竹内惟和為逸為行16資敬王[注釈 11]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為理20為説為兄入江為有為良為柔17桜本藤麿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為紀21入江為守為遂[注釈 12]為善為勇18
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為系22為積為有為遂[注釈 12]為安19
 
 
 
 
 
 
 
為臣23為福[注釈 13]為弘20
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為任24[注釈 14]布美子為守
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為人25[注釈 15]貴実子為常相政
 
 
 
俊久[注釈 16]

系譜参考

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分家

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入江家

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入江家は、明治時代になると入江為守(上冷泉家の冷泉為紀の実弟)が子爵に列せられ、為守は東宮侍従長として大正天皇に、為守の三男・入江相政侍従長として昭和天皇に近侍した。

藤谷家

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藤谷家藤谷為寛(ためちか)が子爵に列せられた。

中冷泉家(中山冷泉家 → 今城家)

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この冷泉家は上冷泉家・下冷泉家にたいして、中冷泉家ともよばれた。中山親綱の子・為親は、上冷泉家の当主・為満天正13年(1585年)に勅勘を受けて京を出奔した後、空位となった上冷泉家の新しい当主として迎えられたが、慶長3年(1599年)に為満が勅勘を解除され、上冷泉家に復帰すると、為親は当主の座を失う事になった。代償として為親は新たに一家を興す事を認められ、中山冷泉(なかやまれいぜい)の家号を称した。為親の跡は為尚、為継と継承されたが、為継は新たに今城定淳と改名し、以後この家系は「今城家」として存続していく事になる。門流もそれまで属していた御子左流を離れ、為親の父・親綱の中山家が属する花山院流に移った。家格は羽林家である。

中山冷泉家は今城家の前身と捉える事もできるため、中山冷泉為親・為尚父子もそれぞれ「今城為親」「今城為尚」と呼ばれる事があるが、実際に「今城」を称するようになったのは為尚の子・定淳(為継)の代からである。

歴代当主

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*( )内は(名前)の読みを示す。

  1. 中山冷泉為親(ためちか)- 先代冷泉為満の失脚と追放により上冷泉家の当主となったが、後その地位を追われ、中山冷泉家を興す。
  2. 中山冷泉為尚(ためひさ)
  3. 中山冷泉為継(ためつぐ) → 家号を「今城」諱を「定淳」(さだあつ/さだのり)と改める。
  4. 今城定経(さだつね)
  5. 今城定種(さだたね)
  6. 今城定興(さだおき)- 姉または妹は中山愛親室。
  7. 今城定恭(さだやす)
  8. 今城定成(さだしげ) - 定恭の弟。
  9. 今城定光(さだみつ) - 定成の実子、母は中山愛親の娘。早世。
  10. 今城定章(さだあき) - 中山愛親の実弟・花山院愛徳の子。
  11. 今城定国(さだくに)
  12. 今城定徳(さだのり) - 初名は今城磐麿。
  13. 今城定政(さだまさ) - 中山孝麿の子。先代・定徳の婿養子。

その他

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  • 武家大内氏の支流で家臣の冷泉氏は、大内弘世の庶子・弘正(ひろまさ)の七世の孫である興豊(おきとよ)が母方の姓である「冷泉」を名乗った事に始まる家柄である。
  • 幕末の画家・冷泉為恭は冷泉家の落胤を自称していたが、血縁的には無縁である。元は絵師家系である狩野派の出身で狩野永恭(– えいきょう)といったが、冷泉家に無断で「冷泉」の家名と通字の「為」を用いて冷泉為恭(– ためちか)と名乗っていた。

播磨細川庄と和歌所

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播磨国細川庄は和歌所に属する荘園 (日本)であり、藤原定家の子孫が相続する事を許された。

重要文化財・冷泉家住宅

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現在の冷泉家住宅(奥は同志社大学
 
現在の冷泉家住宅

上冷泉家の住宅は、京都市今出川通烏丸東入ルにあり、重要文化財に指定されている。寛政2年(1790年)の建築で、現存する最古の公家住宅である。

明治時代になると、ほとんどの旧・公家は明治天皇に従って東京に移住したため、現在の京都御苑内にあったほとんどの公家住宅が空家となり、治安維持のため取り壊された。しかし、上冷泉家には御文庫といわれるかつては勅封だった蔵もあり、また今出川以北の京都御苑外に立地していたため、取り壊しも免れた。

京都御苑及び周辺に残るその他の公家住宅

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冷泉家以外の歌の家

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脚注

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注釈

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  1. ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の上冷泉家領は、山城国愛宕郡一乗寺村のうち200石、山城国乙訓郡西土川村のうち100石。
  2. ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである[16]
  3. ^ 上冷泉家の大納言直任(中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた)の回数は14回なので叙爵内規の伯爵の基準である「大納言まで宣任の例多き旧堂上」に該当[19]
  4. ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の下冷泉家領は、山城国愛宕郡小山村のうち44石、山城国相楽郡林村のうち56石、山城国相楽郡小寺村のうち50石。
  5. ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである[16]
  6. ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[19]
  7. ^ 葉室頼業の次男あるいは三男。
  8. ^ 柳原紀光の父。柳原家に養子入り。
  9. ^ 風早公雄の次男。
  10. ^ 勧修寺経逸の子。
  11. ^ 白川伯王家雅寿王の養嗣子。
  12. ^ a b 柳原隆光(光綱の曾孫/冷泉為綱の玄孫)の子、初め入江為善の養子。
  13. ^ 柳原光愛(為遂の実兄)の子で柳原前光の実弟。
  14. ^ 西四辻家の一族。
  15. ^ 兵庫県加古郡稲美町の松尾家出身。
  16. ^ 坊城俊良の次男。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 橋本政宣 2010, p. 391.
  2. ^ 小田部雄次 2006, p. 326/339.
  3. ^ 冷泉為人監修 1981, p. 35.
  4. ^ a b c d e f g 橋本政宣 2010, p. 392.
  5. ^ a b c d e f 太田 1934, p. 6567.
  6. ^ 冷泉為人監修 1981, p. 39.
  7. ^ 冷泉為人監修 1981, p. 42.
  8. ^ 冷泉為人監修 1981, p. 46.
  9. ^ a b 橋本政宣 2010, p. 393.
  10. ^ 冷泉為人監修 1981, p. 47-48.
  11. ^ 橋本政宣 2010, p. 331.
  12. ^ a b 冷泉為人監修 1981, p. 48-49.
  13. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 24.
  14. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  15. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 11.
  16. ^ a b 刑部芳則 2014, pp. 105–106.
  17. ^ a b 石川健次郎 1972, p. 60.
  18. ^ a b c d 石井孝太郎 1881, p. れ之部.
  19. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 118.
  20. ^ 小田部雄次 2006, p. 326.
  21. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 86.
  22. ^ a b c d e f 橋本政宣 2010, p. 403.
  23. ^ 冷泉為人監修 1981, p. 39-41.
  24. ^ 小田部雄次 2006, p. 339.
  25. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 171.
  26. ^ 京都 冷泉家”. NHK (2022年9月6日). 2022年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月7日閲覧。

参考文献

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  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。 
  •  石井孝太郎国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/65 国立国会図書館デジタルコレクション 
  •  太田, 亮 著「国立国会図書館デジタルコレクション 冷泉 レイゼン」、上田, 萬年三上, 参次 監修 編『姓氏家系大辞典』 第1巻、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、6566頁。 NCID BN05000207OCLC 673726070全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123985/454 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 橋本政宣『公家事典』吉川弘文館、2010年(平成22年)。ISBN 978-4642014427 
  • 冷泉為任監修『冷泉家の歴史』朝日新聞社、1981年。 
  • 冷泉為人 監修『冷泉家 歌の家の人々』(書肆フローラ、2004年ISBN 4-901314-06-8
  • 冷泉為人 編『京都冷泉家の八百年 和歌の心を伝える』(日本放送出版協会2005年ISBN 4-14-081055-6
  • 冷泉布美子南里空海冷泉布美子が語る 京の雅 冷泉家の年中行事』(集英社1999年ISBN 4-08-783147-7

関連項目

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外部リンク

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