三浦朗次
江戸時代後期の大名
三浦 朗次(みうら あきつぐ[1])は、江戸時代後期の大名。美作国勝山藩8代藩主。美作勝山藩三浦家13代。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天保元年8月3日(1830年9月19日)[1] |
死没 | 安政7年2月21日(1860年3月13日)[1] |
改名 | 剛之助(幼名)、有馬純恪、三浦朗次 |
戒名 | 清広院 |
墓所 | 東京都府中市紅葉丘の誓願寺 |
官位 | 従五位下志摩守 |
幕府 | 江戸幕府 日光祭礼奉行、奏者番 |
主君 | 徳川家慶、家定、家茂 |
藩 | 美作勝山藩主 |
氏族 | 肥前有馬氏、三浦氏 |
父母 |
有馬徳純 有馬誉純、三浦義次 |
兄弟 | 朗次、鉄之助ら |
妻 | 松田勝敬娘[1] |
子 | 弘次 |
生涯
編集天保元年(1830年)、越前丸岡藩主・有馬徳純の子として生まれる[1]。その後、徳純の養父である元藩主有馬誉純の養子となり、三男[1]として扱われる。幼名は剛之助、初名は有馬純恪(すみただ)。その後さらに、美作勝山藩主三浦義次の養子となる。
嘉永元年(1848年)11月15日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年11月22日、義次の隠居により、家督を継いだ。同年12月16日、従五位下・志摩守に叙任する。嘉永3年(1850年)4月2日、日光祭礼奉行を命じられる。嘉永5年(1852年)閏2月28日、奏者番に就任する。安政7年(1860年)2月21日、27歳で死去。跡を養嗣子の弘次(義次の弟)が継いだ。
系譜
編集美作勝山藩主三浦家を実系で示せば以下のとおり。
三浦明敬 | |||||||||||||||||||
明喬 | 義理 | ||||||||||||||||||
明次1 | 矩次2 | ||||||||||||||||||
前次3 | 毗次4 | ||||||||||||||||||
誠次5 | |||||||||||||||||||
峻次6 | 義次7 | 弘次9 | |||||||||||||||||
朗次8 | 顕次10 | ||||||||||||||||||
- 実線は実子、点線は養子を示す。
- すべての人物を掲載してはおらず、また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
- 数字は美作勝山藩主の代数を示す。
脚注
編集参考文献
編集- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)