レオン=ポール・ファルグ
レオン=ポール・ファルグ(Léon-Paul Fargue、1876年3月4日 - 1947年11月24日)は、フランスの詩人、随筆家。
レオン=ポール・ファルグ Léon-Paul Fargue | |
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誕生 |
1876年3月4日 フランス、パリ |
死没 |
1947年11月24日(71歳没) フランス、パリ |
職業 | 詩人 |
言語 | フランス語 |
ジャンル | 詩、随筆 |
文学活動 | 象徴主義 |
概要
編集パリ生まれ[1]。リセ・アンリ=カトルでアンリ・ベルグソンに師事し、シャルル=ルイ・フィリップ、アルベール・ティボーデ、アルフレッド・ジャリとの出会いを通して文学を志す[2]。ランボーやラフォルグなどの象徴派の影響を受け、初期の『新フランス評論』誌に寄稿したが、文芸の特定の流派には所属せず、一匹狼的に創作活動を行った[3]。1924年にポール・ヴァレリー、ヴァレリー・ラルボーとともに文学雑誌『コメルス』を創刊した[1]。詩集に『タンクレード』(Tancrède、1895年『パン』誌掲載)、『詩集』(Poèmes、1912年)、『音楽のために』(Pour la musique、1914年)、『空間』(Espaces、1929年)、『ランプの下で』(Sous la lampe、1929年)、『浮沈子』(Ludions、1930年)などがある。
音楽家との交流
編集ファルグはラヴェル、サティなど、近代フランスの作曲家・音楽家との交際によって知られ、ドビュッシーやラヴェルに関する随筆も残している[4]。
ファルグは1900年頃にラヴェルらと共に芸術サークル「アパッシュ」を旗揚げし、ドビュッシーの歌劇『ペレアスとメリザンド』など、当時の最先端の音楽を擁護した[5]。 1917年のバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)によるバレエ『パラード』(台本:ジャン・コクトー、音楽:エリック・サティ、美術:パブロ・ピカソ)に対するスキャンダルは、サティの裁判へと発展したが[6]、ファルグはコクトーらとサティを擁護し、法廷に詰め掛けた[7]。 また、1921年に行われたバレエ・スエドワ(スウェーデン・バレエ団)によるバレエ『エッフェル塔の花嫁花婿』(台本:コクトー、音楽:「フランス6人組」の合作)の初演の際には、ファルグは野次を飛ばす聴衆の顔をめがけてステッキを投げつけた[8]。
ファルグにまつわる楽曲
編集ラヴェルは初期のピアノ組曲『鏡』の第1曲「蛾」をファルグに献呈している。また、ファルグを讃えた『レ・フイユ・リーブル(Les Feuilles Libres)』1927年6月特別号のために、ラヴェルは彼の詩集『音楽のために』の中のテキストによる歌曲『夢』を作曲した[9]。 エリック・サティはファルグの詩に基づき、歌曲「ブロンズの彫像」(『3つの歌曲』第1曲、1916年)、歌曲集『潜水人形』(1923年)を作曲。他にもジョルジュ・オーリック、フローラン・シュミットなどもファルグの詩に曲をつけている[10]。
脚注
編集- ^ a b “Léon-Paul Fargue (1876-1947)”. data.bnf.fr. Bibliothèque nationale de France. 2020年2月28日閲覧。
- ^ Richard Blin. “Léon-Paul Fargue” (フランス語). republique-des-lettres.com. La République des Lettres. 2020年2月28日閲覧。
- ^ 秋山幸人『レオン=ポオル・ファルグの詩』思潮社、2009年、29ページ
- ^ 秋元、前掲書、96-97ページ
- ^ アービー・オレンシュタイン、井上さつき訳『ラヴェル 生涯と作品』音楽之友社、2006年、41-42ページ
- ^ バレエを酷評した評論家ジャン・プエグに対し、サティが罵詈雑言を投げかけたことが発端である。
- ^ オルネラ・ヴォルタ、大谷千正訳『サティとコクトー 理解の誤解』新評論社、1994年、48-63ページ
- ^ ジェルメーヌ・タイユフェール『ちょっと辛口 タイユフェール回想録』春秋社、2002年、62ページ
- ^ 作家のマルセル・ラヴァルからの委嘱による(オレンシュタイン、前掲書、119ページ)。
- ^ 秋元、前掲書、97ページ
参考文献
編集- 秋山幸人『レオン=ポオル・ファルグの詩』思潮社、2009年、ISBN 978-4-7837-1653-2