ラトガース大学

アメリカの州立大学

ラトガース・ニュージャージー州立大学[注釈 1](ラトガース・ニュージャージーしゅうりつだいがく、Rutgers[注釈 2], The State University of New Jersey)、通称ラトガース大学[2](Rutgers University、Rutgers、RU)は、アメリカ合衆国東海岸ニュージャージー州の州立総合研究大学である。1766年11月10日創立であり、植民地時代に創設された全米で8番目に古い歴史をもつ名門大学である[3]

ラトガース大学
モットー Sol iustitiae et occidentem illustra
(英訳)Sun of righteousness, shine upon the West also.
種別 州立
設立年 1766
資金 $783.5 million (2013)
学長 Robert L. Barchi
学生総数 58,788
学部生 43,967
大学院生 14,821
所在地 ニュージャージー州
キャンパス ニューブランズウィック/ピスカタウェイ(本部)
ニューアーク
カムデン
スクールカラー   スカーレット
運動競技 ビッグ・テン・カンファレンス(2014より)
ニックネーム スカーレットナイツ
公式サイト [1]
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全米の州立大学のうちアイビーリーグと同質の教育を受けられるパブリック・アイビーの一校に数えられており、主要世界大学ランキングでも常に上位にランクされている。

ラトガース大学は、ラトガーズ大学とも表記される[4]

歴史

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15世紀末、コロンブスがアメリカ大陸に到着してから、16世紀にはスペインとフランスが、17世紀にはイギリスとオランダが、アメリカへの植民を開始し植民地が広がっていくが、それとともに牧師の不足が深刻化した。当時、牧師になるためにはヨーロッパの限られた神学校で教育を受け資格を得なければならなかったが、植民地の人々はアメリカにも牧師を養成し資格を認定できる学校を作ろうとした。1776年のアメリカ合衆国独立以前に正式な学位を授与する植民地大学としての認可を受けた9校がコロンビア、ハーバード、イェール、プリンストン、ウィリアム・アンド・メアリー、ペンシルバニア、ブラウン、ダートマス、そしてラトガース大学だった。いずれも当時は、プロテスタント会派の人々が学校の設立と運営を支援した。

1766年、ラトガースはオランダから殖民してきたオランダ改革派教会の人々の支援で設立され、当時のイギリス国王ジョージ3世の王妃であったシャーロット王妃をたたえ、クイーンズカレッジという名称で設立されたが、後に経営危機に陥った時に篤志家ラトガースの援助を受けて再建。1825年にラトガース大学と改名した。

ランドグラント・カレッジ法(農業および機械技術を振興するための州立カレッジの設立奨励法)に基づき、1865年に科学校(Scientific School)が新たに設けられ、1868年には科学学部として古典学部に並立する形で正式にカレッジに組み込まれた[5]。1869年にはアメリカで最初といわれる歴史的なフットボールの試合がプリンストン大学との間に行われた[5]

ラトガース大学は先に述べた牧師養成のための植民地大学9校の内、州立大学となった2校のうちの1つで、ランドグラント大学(1864年)を経て州立大学(1956年)となった。州立大学となったもう1校はウィリアム・アンド・メアリー大学である。1989年からは、北米に在する62校の優れた研究大学で構成されるアメリカ大学協会に所属する。2014年にはビッグテンカンファレンスに招待され[6]その正式メンバーとなった。同年、教育コンソーシアムの一つであるCIC(Committee on Institutional Cooperation)にも参加している。

キャンパス

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ラトガース大学ビショップハウス

生徒の人種構成が多様である。内訳は以下の通り。白人: 45.2%, アジア系アメリカ人: 20.2%, ヒスパニック: 11.7%, 黒人: 10.2%, 留学生: 6.3%, その他: 7%[7]

大学本部はニューブランズウィックに置かれており、隣接する州ニューヨークのマンハッタンから電車(ニュージャージー・トランジット)で50分ほどである。

教育

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州立大学のため一般的な名門私立大学と比較すると授業料は安いが、州外から入学する学生(海外からの留学生含む)の授業料は高く設定されており、授業料だけで年間約28,000ドル(約300万円)である。

卒業生にミルトン・フリードマン(1976年ノーベル経済学賞受賞)や、セルマン・ワクスマン(1952年ノーベル生理学・医学賞受賞)がいる。

以下は本部ニューブランズウィック校と同校に設置されている各学部、研究過程、専門大学院のランキングである。

主要世界大学ランキング

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U.S.News & World Report大学ランキング

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  • 全米大学総合ランキング: 第40位(2024年度)[12]
  • 全米州立大学ランキング: 第15位(2024年度)
  • 世界大学ランキング:第97位(2018年度)[13]

US NEWS主要研究課程ランキング(2019)[14]

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  • 英語学:第15位
  • 心理学:第53位
  • 社会学:第28位
  • 歴史学:第21位
  • 政治学:第45位
  • 経済学:第47位
  • 数学:第22位
  • 統計学:第40位
  • 計算機科学:第37位
  • 物理学:第28位
  • 化学:第67位
  • 生物学:第73位
  • 工学:第52位

専門大学院

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  • 経営学大学院(MBA):第44位
  • 教育学大学院:第43位
  • 公共政策大学院:第52位
  • 図書館情報学大学院:第7位

さらに、ニューアーク・キャンパスには、行政大学院(29位)及び法科大学院(86位)などの専門大学院が設置されている[15][16]

そのほか大学研究施設の全米ランキングに於いては、哲学(2位)、地質学(9位)、地理学(13位)、言語学(17位)、芸術史(20位)、経営工学(21位)、比較文学(22位)などが挙げられる[17]

Wall street&Technologyによれば、ビジネススクール内に設置されている数理ファイナンスの修士プログラムは全米で7位と評価され、前後にはプリンストン大学(6位)とスタンフォード大学(8位)がランクされている[18]

スポーツ

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ハイポイントソリューションスタジアムの様子

スクールカラーはスカーレット(緋色または)。チーム名は「ラトガース・スカーレットナイツ」(Rutgers Scarlet Knights)。

2006年時点でアメリカンフットボール、男女サッカーフィールドホッケー、女子バレーボール、女子バスケットボールなどのチームが優秀な成績を収めている。ビッグ・イースト・カンファレンスに属していたが、2014年から新しくビッグテンカンファレンスに移籍することになった。

ピスカタウェイにあるアメリカンフットボールのスタジアム(High Point Solutions Stadium)は改築後五万人を収容する。

アイビーリーグの前身となった、4校によるスポーツリーグに加盟していた。ちなみにこの4校リーグは、ラトガース大学、コロンビア大学プリンストン大学、およびイェール大学で、設立は1876年11月にさかのぼる。

アメリカン・フットボールで、初の大学対抗試合は、ラトガースで行われた(1869年11月6日、対プリンストン大学)。

その他

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日本との関わり

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1858年(安政5年)に日米修好通商条約が調印されると、アメリカのプロテスタント各派(特に米国の聖公会、長老教会、オランダ改革派の三派)が一斉に日本に宣教師を派遣した。オランダ改革派に属していたのが明治維新後の日本の近代化に大いに関係するブラウンズシモンズフルベッキである。

フルベッキは、明治政府の顧問となり、多くの留学生を斡旋したが、必然的に自らの教派の学校であるラトガース大学に多くを留学させることになった。幕末から明治18年までに、ラトガース大学や付属のグラマースクールで学んだ日本人学生は300人以上いた。その中には、明治新政府の要人になる人材も多数含まれた。まず、フルベッキがアメリカに送った最初の日本人が、幕府の海外渡航解禁前の慶応2年(1866年)にラトガースに留学した横井小楠の甥の横井佐平太・大平兄弟だった。その他、福井藩士の日下部太郎岩倉具視の息子の岩倉具定具経兄弟、勝海舟の息子の勝小鹿、最後の上田藩主の松平忠礼とその異母弟・松平忠厚松方コレクションで有名な松方幸次郎らもラトガースに留学していた。また、ラトガースからはウィリアム・グリフィスエドワード・ウォーレン・クラークなど宣教師となった卒業生を日本に教師として派遣し、日本でのキリスト教布教と近代化に大きな貢献をした。初代駐日公使ハリスの後任として、リンカーン大統領が任命したのも、ラトガース大学出身のオランダ改革派ロバート・プルインであった。

1867年、福井藩最初の海外留学生として日下部太郎は第16代福井藩主・松平春嶽の命を受けて渡米し、ラトガース大学に入学した。日下部は学業では素晴らしい成果を修めたものの、卒業を前に肺結核に倒れ、1870年に26歳で没した。日下部の墓は今もラトガース大学のあるニュージャージー州ニューブランズウィック市にある。日下部と深い親交を結んだウィリアム・グリフィスは、のちに日下部の出身地である福井藩の藩校で教鞭を取る。そのような関係から、日下部の出身地である福井市とニューブランズウィック市は姉妹都市関係にある。

その後も幕末からの10年間で少なくとも300人以上の日本人がラトガース大学に留学した。その中には松方コレクションで有名な松方幸次郎海援隊隊士として活動した菅野覚兵衛白峰駿馬、さらに勝海舟の嫡男・勝小鹿岩倉具視の息子である岩倉具定岩倉具経兄弟、最初に渡米した横井佐平太・横井太平兄弟がいた[19]

ラトガース大学出身の関連人物

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19世紀

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20世紀

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著名な卒業生

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主要記事:w:List of Rutgers University people

脚注

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注釈

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  1. ^ ニュージャージー州立大学ラトガーズ校表記の資料もある[1]
  2. ^ /ˈrʌtɡərz/

出典

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  1. ^ 文部科学省 初等中等教育局教職員課 (2013年12月). “日本人若手英語教員米国派遣事業の概要(平成24年度)”. 2023年6月15日閲覧。
  2. ^ 羽田積男「ラトガース大学」『平凡社「大学事典」』https://kotobank.jp/word/ラトガース大学コトバンクより2023年6月15日閲覧 
  3. ^ http://www.rutgers.edu/about-rutgers/rutgers-history
  4. ^ ラトガーズ大学」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』https://kotobank.jp/word/ラトガーズ大学コトバンクより2023年6月15日閲覧 
  5. ^ a b 高木不二『大妻女子大学紀要 文系』第37巻、2005年、248-233頁、NAID 110001140116 
  6. ^ http://www.bigten.org/genrel/112012aaf.html[リンク切れ]
  7. ^ http://www.rutgers.edu/about-rutgers/we-are-diverse[リンク切れ]
  8. ^ https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings/rutgers-state-university-new-jersey-0
  9. ^ https://www.topuniversities.com/universities/rutgers-university-new-brunswick/undergrad
  10. ^ http://www.shanghairanking.com/World-University-Rankings/Rutgers-The-State-University-of-New-Jersey---New-Brunswick.html[リンク切れ]
  11. ^ https://cwur.org/2017/Rutgers-University.php
  12. ^ https://premium.usnews.com/best-colleges/rutgers-new-brunswick-6964/overall-rankings
  13. ^ https://www.usnews.com/education/best-global-universities/rutgers-the-state-university-of-new-jersey-new-brunswick-186380
  14. ^ https://www.usnews.com/best-graduate-schools/rutgers-university-new-brunswick-186380/overall-rankings
  15. ^ U.S. News Best Public Affairs Schools”. U.S.News. 2023年2月15日閲覧。
  16. ^ U.S. News Best Law Schools”. U.S.News. 2023年2月15日閲覧。
  17. ^ http://www.rutgers.edu/about-rutgers/national-rankings[リンク切れ]
  18. ^ http://www.wallstreetandtech.com/top-quant-schools-2012/rutgers-university[リンク切れ]
  19. ^ 髙橋 秀悦「幕末・明治初期のアメリカ留学の経済学 : 「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀總裁」富田鐵之助(2)」『東北学院大学経済学論集』第183巻、2014年12月、1-39頁、NAID 40020329074 
  20. ^ 1860年代ラトガース・カレッジに吹いた「日本旋風」と ベンジャミン・デューク国際基督教大学名誉教授”. Japan ICU Foundation (2019年3月16日). 2023年6月16日閲覧。
  21. ^ “キブレハン来日1号&3発 ヤクルト38年ぶり23安打16得点大勝でゲーム差6に広げる”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2022年8月28日). https://www.daily.co.jp/baseball/2022/08/28/0015590603.shtml 2022年12月22日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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