マルコム・アンダーソン
マルコム・アンダーソン(Malcolm Anderson, 1935年3月3日 - )は、オーストラリア・クイーンズランド州セオドア出身の男子テニス選手。愛称の「マル・アンダーソン(Mal Anderson)」で呼ばれることも多い。
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マルコム・アンダーソン | ||||
基本情報 | ||||
フルネーム | Malcolm James Anderson | |||
愛称 | Mal | |||
国籍 | オーストラリア | |||
出身地 | 同・クイーンズランド州セオドア | |||
生年月日 | 1935年3月3日(89歳) | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 片手打ち | |||
殿堂入り | 2000年 | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 準優勝(1958・72) | |||
全仏 | 2回戦(1957) | |||
全英 | ベスト8(1956・58) | |||
全米 | 優勝(1957) | |||
優勝回数 | 1(米1) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | 優勝(1973) | |||
全仏 | 優勝(1957) | |||
優勝回数 | 2(豪1・仏1) | |||
4大大会最高成績・混合ダブルス | ||||
全豪 | 優勝(1957) | |||
優勝回数 | 1(豪1) | |||
国別対抗戦最高成績 | ||||
デビス杯 | 優勝(1957・73) | |||
1957年の全米選手権男子シングルス優勝者になった後、1959年に「プロテニス選手」に転向した。その後1968年に始まったテニス界の「オープン化措置」で4大大会に復帰し、1973年の全豪オープン男子ダブルス優勝者になり、オープン化時代の前後をまたいで活動した。
来歴
編集アンダーソンの故郷は、クイーンズランド州内の広大な田舎地域にある。下記参考文献のうち、バド・コリンズの百科事典の説明によれば「牛やカンガルー、ワライカワセミの生息地で、自宅には手作りのテニスコートとアリの寝床があった」という。そんな育ちであったことから、彼には後に「田舎者(Country)」「カウボーイ(Cowboy)」などのニックネームがついた。身長185cmほどの長身選手で、ほっそりした“線路のように細い”体格の持ち主と呼ばれた。彼はロイ・エマーソンの姉妹と結婚したことから、エマーソンと義理の兄弟関係になった。
アンダーソンは8歳からテニスを始めたが、真剣に練習するようになったのは16歳以後であった。22歳になった1957年、アンダーソンに最初のハイライトが訪れる。3度目の出場だった1957年全米選手権で、彼はノーシードから勝ち上がり、4回戦でディック・サビット(アメリカ)、準々決勝でルイス・アヤラ(チリ)、準決勝でスベン・デビッドソン(スウェーデン)を破って決勝に勝ち上がった。決勝戦では同じオーストラリアのアシュレー・クーパーを 10-8, 7-5, 6-4 のストレートで破る。こうしてマルコム・アンダーソンは、全米選手権(現在の全米オープンテニス)の歴史を通じて、史上初めてノーシードから男子シングルスを制した選手になった。
4大大会優勝
編集- 全豪オープン 男子ダブルス:1勝(1973年)/混合ダブルス:1勝(1957年) [男子シングルス準優勝2度:1958年→1972年]
- 全仏選手権 男子ダブルス:1勝(1957年)
- 全米選手権 男子シングルス:1勝(1957年) [同部門準優勝1度:1958年]
年 | 大会 | 対戦相手 | 試合結果 |
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1957年 | 全米選手権 | アシュレー・クーパー | 10-8, 7-5, 6-4 |
参考文献
編集- バド・コリンズ著『テニスのすべて-究極のテニス百科事典』(英語、2003年刊、ISBN 0973144343、スポーツ・クラシック・ブックス)
- マーティン・ヘッジズ著『コンサイス・テニス辞書』(英語、1978年刊、ISBN 0831717653、メイフラワー・ブックス)
外部リンク
編集- マルコム・アンダーソン - 国際テニス殿堂のプロフィール
- マルコム・アンダーソン - デビスカップのプロフィール
- マルコム・アンダーソン - 国際テニス連盟
- ウィキメディア・コモンズには、マルコム・アンダーソンに関するカテゴリがあります。