マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1610-1665)
バイエルン選帝侯マクシミリアン1世の2度目の妃
マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ(Maria Anna von Österreich, 1610年1月13日 - 1665年9月25日)は、バイエルン選帝侯マクシミリアン1世の2度目の妃。
マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ Maria Anna von Österreich | |
---|---|
バイエルン選帝侯妃 | |
| |
在位 | 1635年7月15日 - 1651年9月27日 |
出生 |
1610年1月13日 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、グラーツ |
死去 |
1665年9月25日(55歳没) 神聖ローマ帝国 バイエルン選帝侯領、ミュンヘン |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 バイエルン選帝侯領、ミュンヘン、聖ミヒャエル教会 |
配偶者 | バイエルン選帝侯マクシミリアン1世 |
子女 |
フェルディナント・マリア マクシミリアン・フィリップ・ヒエロニムス |
家名 | ハプスブルク家 |
父親 | 神聖ローマ皇帝フェルディナント2世 |
母親 | マリア・アンナ・フォン・バイエルン |
生涯
編集神聖ローマ皇帝フェルディナント2世と妃マリア・アンナ・フォン・バイエルンの娘として、グラーツで生まれた。妹にポーランド王ヴワディスワフ4世妃ツェツィーリア・レナータがいる。
1635年7月15日、ウィーンで37歳年上のマクシミリアンと結婚。母マリア・アンナはバイエルン公ヴィルヘルム5世の娘でマクシミリアンの妹であったため、伯父・姪同士の結婚であった。マクシミリアンは最初の妃エリーザベト・フォン・ロートリンゲンとの間に子供のないまま死別しており、マリア・アンナには早急に後継者を生む責任があった。マリア・アンナは知的で分別があり、精力的で、財政経験があったとされる。先妻エリーザベトと対照的に、マリア・アンナは積極的に政治に関わった。彼女はハプスブルク家の立場と言うよりも、バイエルン選帝侯家の立場から行動した。ミュンヘンの宮廷で、夫の重臣たちと意見を交換することを好んだという。
夫の死後、長男フェルディナント・マリアの摂政を務めた。1665年、ミュンヘンで死去。
子女
編集- フェルディナント・マリア(1636年 - 1679年)
- マクシミリアン・フィリップ・ヒエロニムス(1638年 - 1705年)