チャールズ・ミッキー・スミス

スコットランド人天文学者

チャールズ・ミッキー・スミス: Charles Michie Smith1854年7月13日 - 1922年9月27日)は、スコットランド天文学者である[1]。大学卒業後のほとんどをインドで過ごし、マドラス基督教大学物理学教授、マドラス管区政府天文官を務め、コダイカナル天文台英語版の設立に尽力した[3]

Charles Michie Smith
チャールズ・ミッキー・スミス
生誕 (1854-07-13) 1854年7月13日[1]
スコットランドの旗 スコットランド アバディーンシャー キーグ英語版[1]
死没 (1922-09-27) 1922年9月27日(68歳没)[1]
イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国 マドラス管区 コダイカナル英語版[2]
居住 イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国
研究分野 天文学[1]
研究機関 マドラス基督教大学マドラス天文台英語版コダイカナル天文台英語版[1]
出身校 エディンバラ大学[3]
指導教員 ピーター・テイト[2]
主な業績 マドラス管区政府天文官[3]
主な受賞歴 インド帝国勲章コンパニオン(1910年)[3]
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生涯

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チャールズ・ミッキー・スミスは、1854年7月13日にスコットランド、アバディーンシャーキーグ英語版で、スコットランド自由教会牧師の家に生まれた[1]。幼少期は故郷で父親に学問の手ほどきを受け、やがてアバディーン大学に入学、その後エディンバラ大学で学んだ[2]。エディンバラ大学では、ピーター・テイトアーチボルド・ゲイキーチャールズ・ピアッジ・スミス英語版らの指導を受けた[2]。在学中、スミスはウィリアム・トムソンフリーミング・ジェンキンの下で電気技師としても働き、ケーブル敷設などに携わった[3]。1876年に学士の学位を得て、エディンバラ大学を卒業した[3]

大学卒業後、スミスは海底ケーブル製造会社に就職し、ケーブル敷設のためにカリブ海地域へ渡ったが、数か月で仕事がなくなり、一時解雇となってエディンバラへ戻った[2]。その後、自由教会の外国伝道委員会のつてで、マドラス基督教大学の物理学教授の職を得て、1877年に22歳でインドへ渡った[2]

スミスは、エディンバラ王立協会英語版の会報に多くの論文を書き、1882年にはアレグザンダー・クラム・ブラウン英語版、ピーター・テイト、ウィリアム・トムソン、ジョージ・クリスタル英語版の推薦で協会フェローに選ばれた[4][1]。1884年には、王立天文学会の会員にもなっている[5]

 
コダイカナル天文台英語版

1891年、スミスは亡くなったノーマン・ポグソンの後任として、マドラス管区政府天文官に就任した[6][3]。ポグソンの仕事を引き継いで、新マドラス総合星表の編纂を行ったほか、台長を務めたマドラス天文台英語版を南部のコダイカナル英語版に移転する事業を先導し、1899年にコダイカナル天文台が完成すると、その初代台長を務め、観測機器の整備に尽力した[3][4][7][8]。政府天文官としての功績が認められ、1910年にはインド帝国勲章コンパニオン(CIE)を授与されている[3]

1911年に政府天文官を退官し、スミスはコダイカナルの自邸で余生を送った[3][2]。スミスの後、コダイカナル天文台長にはジョン・エバーシェッドが就いた[4][8]。晩年に一度スコットランドに帰国したが、長年のインド暮らしで、スコットランドの厳しい気候が合わなくなったため、再びコダイカナルに戻った[3][2]。1922年9月27日、スミスはコダイカナルで亡くなり、同地に葬られた[4][2]

業績

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自然科学

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マドラス基督教大学時代に、スミスが発表した論文は、磐梯山の噴火液体表面張力の測定、大気電気学野菜スペクトル吸収線の関係など、幅広い主題にわたる[3][4]

マドラス天文台長としては、まず長年継続している気象観測結果の整理と出版を行った[3]。ポグソンから引き継いだ恒星観測の成果は、1899年に5303個の恒星を収録した「新マドラス総合星表」(New Madras General Catalogue of 5303 Stars for the Epoch 1875.0)を発行、欧州ではみえないがインドでは容易にみえる南天の恒星を多数含んでおり、重宝された[3][4]。また、1894年の金環日食1898年の皆既日食英語版の観測を行い、太陽コロナの写真など重要な記録を得ている[3][4]。1899年にはしし座流星群の観測にも取り組み、予想された大出現はなかったが、明るい群流星を多数記録し、またマドラスでの30年間の流星観測記録も発表した[4][3]黄道光の観測も行い、ブリタニカ百科事典(第9版)に黄道光の記事を執筆している[6][3]

その他

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スミスは、本業以外にも様々な活動を精力的に行っていた[3]マドラス大学の評議員や、マドラス文学会英語版の事務局、基督教大学の月刊誌 Christian College Magazine の編集人に、南インドの日刊紙 Madras Mail の編集者、慈善団体の会長などが挙げられる[3][2][9]。たいへん多忙であったスミスだが、釣りゴルフもたしなんでおり、コダイカナル・ゴルフクラブ英語版の幹事も務めていた[3][10]

家族

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チャールズ・ミッキー・スミスは、スコットランド自由教会の牧師である父ウィリアム・ピリー・スミスと、母ジェーン・ロバートソンの3男、11人きょうだいの7番目として誕生した[3][2]。兄には、旧約聖書学者・東洋学者として高名なウィリアム・ロバートソン・スミス英語版がいる[3][2]。生涯独身で子供はおらず、晩年は妹のルーシーをコダイカナルに招いて二人暮らしをしており、死後は、チャールズより半年前に亡くなったルーシーと同じ墓に葬られている[3][2]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h Waterston, C. D.; Shearer, A. Macmillan, eds (2006-07). Biographical Index of Former Fellows of The Royal Society of Edinburgh 1783 - 2002 Part II K-Z. Edinburgh: The Royal Society of Edinburgh. p. 857. ISBN 0-902198-84-X 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Rao, N. Kameswara; Vagiswari, A.; Birdie, Christina (2014-02), “Charles Michie Smith - Founder of the Kodaikanal (Solar Physics) Observatory and Beginnings of Physical Astronomy in India”, arXiv preprint, arXiv:1402.6189, Bibcode2014arXiv1402.6189K, doi:10.15781/T2707WQ02, https://hdl.handle.net/2152/41085 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w Henderson, J. R. (1924), “C. Michie Smith, C.I.E., B.Sc., F.R.A.S.”, Proceedings of the Royal Society of Edinburgh 43: 253-254, doi:10.1017/S0370164600022641 
  4. ^ a b c d e f g h “Obituary. Fellows: Professor Charles Michie Smith”, Monthly Notices of the Royal Astronomical Society 83 (4): 245-246, (1923-02-09), Bibcode1923MNRAS..83R.245., doi:10.1093/mnras/83.4.245a 
  5. ^ Charles Michie Smith”. RAS Obituaries. Royal Astronomical Society. 2024年11月21日閲覧。
  6. ^ a b “Prof. C. Michie Smith”, Nature 110: 610, (1922-11-04), doi:10.1038/110610a0 
  7. ^ Directors of Madras Observatory 1786 - 1899”. Indian Institute of Astrophysics. 2024年11月21日閲覧。
  8. ^ a b Directors of Kodaikanal Observatory 1899 - 1971”. Indian Institute of Astrophysics. 2024年11月21日閲覧。
  9. ^ Madras Christian College Magazine”. Ideas of India. 2024年11月21日閲覧。
  10. ^ Ho. Secretaries”. Kodaikanal Golf Club. 2024年11月21日閲覧。

外部リンク

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