タウラゲ

リトアニア共和国の都市

タウラゲリトアニア語: TauragėTaurage.ogg 発音[ヘルプ/ファイル])は、リトアニア都市タウラゲ郡の中心都市であり、タウラゲ地区自治体の中心都市でもある。ユーラ川沿いに位置する工業都市で、ロシア連邦カリーニングラード州との国境やバルト海岸に近い。

タウラゲ
Tauragė
タウラゲ城
タウラゲ城
タウラゲの市章
市章
位置
タウラゲの位置(リトアニア共和国)の位置図
タウラゲの位置(リトアニア共和国
地図
座標 : 北緯55度15分 東経22度17分 / 北緯55.250度 東経22.283度 / 55.250; 22.283
歴史
文献に登場 16世紀
行政
 リトアニア
 地方 ジェマイティヤ
  タウラゲ郡
 自治体 タウラゲ地区自治体
 市 タウラゲ
人口
人口 2009年現在)
  市域 27,696人
その他
等時帯 EET (UTC 2)
夏時間 EEST (UTC 3)
郵便番号 LT-72001(中心部)
公式ウェブサイト : http://www.taurage.lt/

都市の名称

編集

リトアニア語で「タウラゲ」は2つの単語からなっている。1つは「タウラス」(tauras) で「野牛」を意味し、もう1つは「ラガス」(ragas) で「ツノ」を意味する。タウラゲの市章も野牛のツノをかたどったものとなっている。

タウラゲは、ドイツ語Tauroggenポーランド語Taurogiロシア語Таурагеイディッシュ語טאווריק (Tovrik) と呼ばれる。

歴史

編集

1655年ラジヴィウ家(ラドヴィラ家)の者が移り住んでから、タウラゲはリトアニアにおけるルター派の中心都市となった。ルドヴィカ・カロリナ・ラジヴィウブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒと結婚したことにより、1691年から1795年にかけてタウラゲはブランデンブルク=プロイセン領となる。その後はロシア帝国領となった。

1807年6月21日、ロシア皇帝アレクサンドル1世ナポレオン・ボナパルトはタウラゲで休戦協定を結び、その後ティルジット講和条約を結んだ。1836年、火災により市内の大半が焼失。

1915年、第一次世界大戦により、タウラゲ市内の施設の多くがドイツ軍によって破壊された。1927年9月9日、スメトナ政権に対する蜂起が起きた(タウラゲ蜂起)が、すぐに鎮圧された。1940年にソヴィエト連邦リトアニアを占領すると、タウラゲ城は反体制派のリトアニア人やポーランド人捕虜を収監しておく場所として利用された。ソ連が占領していた1940年には多くの現地住民がシベリアへと送られた。ロマン・アブラモヴィッチの両親や親戚もシベリアへと送られたが、そのためにその後起きたホロコーストからは免れることができた。1941年6月22日、ドイツはバルバロッサ作戦を開始、ソ連軍が撤退し、タウラゲはその日のうちにドイツ国防軍に占領された。約4,000人のユダヤ人がタウラゲやその周辺の村で殺害された。1944年の秋、ソ連が再び占領したことでドイツの占領は終わった。その後1990年までソ連による占領は続いた。

人口

編集
  • 1650年 - 200人
  • 1823年 - 200人
  • 1833年 - 630人
  • 1872年 - 5,818人
  • 1897年 - 6,600人
  • 1914年 - 10,000人
  • 1923年 - 5,470人
  • 1931年 - 6,122人
  • 1935年 - 6,527人
  • 1939年 - 10,561人
  • 1959年 - 12,041人
  • 1962年 - 14,000人
  • 1970年 - 19,814人
  • 1979年 - 25,966人
  • 1989年 - 30,119人
  • 2001年 - 29,124人
  • 2005年 - 28,504人
  • 2009年 - 27,696人

姉妹都市

編集

著名出身者

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集