スヴャトポルク・ユーリエヴィチ
スヴャトポルク・ユーリエヴィチ(ロシア語: Святополк Юрьевич、? - 1190年)は、ユーリー・ヤロスラヴィチの子である。トゥーロフ・ピンスク公(在位:1170年以降 - 1190年)。
スヴャトポルク・ユーリエヴィチ Святополк Юрьевич | |
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トゥーロフ・ピンスク公 | |
在位 | 1170年以降 - 1190年 |
出生 |
12世紀 |
死去 |
1190年 |
子女 |
ウラジーミル ロスチスラフ |
家名 | リューリク朝 |
父親 | トゥーロフ・ピンスク公ユーリー |
母親 | アンナ・フセヴォロドヴナ |
生涯
編集1157年、ガーリチ公ヤロスラフの依頼により、イヴァン・ロスチスラヴィチの引渡しを求めてスーズダリ公(兼キエフ大公)ユーリーのもとへ向かったが(この時イヴァンはヤロスラフと敵対関係にあり、ユーリーに捕らえられていた)、イヴァンを庇護しようとする聖職者たちの介入によって、イヴァンはスーズダリへと送られた。
1161年にウラジーミル・ムスチスラヴィチに対する遠征軍に参加した。1168年には他の諸公と共にポロヴェツ族への遠征に参加、またキエフ大公ムスチスラフを支援してウラジーミル大公アンドレイと戦った。一方、1173年にはアンドレイ陣営に加わり、ロスチスラフ家と戦っている。
1173年、ガーリチ公ヤロスラフは妻のオリガとの間に軋轢が生じ、オリガを遠ざけた。オリガは息子のウラジーミルと共にポーランドへ逃れたが、スヴャトポルクはオリガの帰還を求めた。一方、1183年、ガーリチ公ヤロスラフと不和になったオリガの息子のウラジーミルに対しては、身元の受け入れを拒否している。
1190年に死亡した。
子女
編集参考文献
編集- Войтович Л. КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ
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