スポーツ玉澤
スポーツ玉澤(スポーツたまざわ)は、東京都台東区に本拠地を置く、野球用品(バットやグローブなど)を中心としたスポーツ用品メーカー。TAMAZAWAという、アルファベットのブランド名表記も見られる。
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
日本 〒110-0015 東京都台東区東上野5-10-5 船曵ビル2階 |
業種 | その他製品 |
法人番号 | 8010501006396 |
事業内容 | 野球道具製造 |
代表者 | 破産管財人 増本善丈 |
外部リンク | http://www.sports-tamazawa.com/ |
沿革
編集1910年、創業者・玉澤敬三[1]が新宿で、見習い先の支店「田中運動具支店」として営業を開始する[2]。
1912年、「玉澤バット商会」と社名変更[2]。
1938年、「株式会社玉澤」と社名変更[3]
1964年頃、玉澤バットは、多くのプロ野球選手が使っていたという[4]。
1974年、日本初のアルミ製バット「斗魂」完成[2]。
1984年、「株式会社玉澤スポーツ」と社名変更、世田谷区に移転。
1994年10月、「株式会社スポーツ玉澤」が台東区上野に設立され、事業を継承。
2016年12月、台東区東上野に移転。
2023年6月、当時の代表が死去し、9月末に事業を停止[5]。
読売巨人軍との関わり
編集読売巨人軍のユニフォームにおいては、V9時代(1965年 - 1973年)に着ていたものを手掛けていた[7]。さらに、戦前1936年当時のTAMAZAWA製のもの(青柴憲一投手が着用)も発見されている[8]。のち長嶋茂雄監督(第一次)時代から藤田元司監督(第一次)時代まで TAMAZAWA が手掛けた(デサント製のものと併用)。
1977年に東映まんがまつりの内の1本としてロードショーされた『ジャイアンツのこども野球教室』で、実技指導を受けた子供らのユニフォームや野球用具も当社が協賛して使用したものである。
ボールに関しても、広澤克実によると、かつて巨人軍でTAMAZAWA製を使っていたという[9]。
また、川上哲治がプロ3年目の1940年に初めて(短期間ながら)使用したとされる「赤バット」は、この時既に出入り業者となっていたTAMAZAWAの担当者に本人が発注したものという情報もある。当時のチームカラー海老茶色を川上が希望したものの、塗料の関係で赤っぽくなったのが発祥だという(その後の「赤バット」は川上が復員復帰した1946年に南風堂が贈呈し、翌1947年に美津和タイガーが年間契約で提供したがボールへの着色弊害でカラーバット自体使用禁止になったという)[10]。
関連文献
編集- 『不滅 元巨人軍マネージャー回顧録』 - 著者の菊池幸男は、同社の巨人担当セールスマンを15年勤めた後、1982年に巨人の用具係に転身、1994年に一軍マネージャーとなった。
脚注
編集- ^ 「東京運動具製造販売業組合史」(1936 玉澤敬三編/東京運動具製造販売業組合、復刻は東京スポーツ用品工業協同組合)という著書がある。 (日本テニス協会)
- ^ a b c タマザワ とは - コトバンク(「世界の一流ブランドがわかる事典」)
- ^ 公式サイト トップ swf
- ^ バット作りの上でTAMAZAWAのサンプルを見て影響を受けたという、MIZUNO社のプロバットマイスター久保田五十一による談。 (MIZUNO 匠道 SHODO 「匠 バット編 第二章 久保田五十一 p.2」)
- ^ a b 「元「TAMAZAWA」「玉澤」ブランドの野球用品メーカー、スポーツ玉澤が破産手続き開始」『Yahoo!ニュース』 帝国データバンク、2024年2月15日。2024年2月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年2月16日閲覧。
- ^ 「株式会社玉澤運動具店」『SalesNow DB』。2024年2月16日閲覧。
- ^ インパクトある逸品…巨人V9時代の長嶋ユニホーム - ZAKZAK、2009/01/27
- ^ 1936年のユニフォーム 週刊ベースボール(2006年2月25日発行 第7号)連載「ベースボール博物館」 - 野球殿堂博物館
- ^ 元巨人広澤克実氏「ドームランは都市伝説。原因はボール」 - NEWSポストセブン(週刊ポスト 2011年5月27日号)
- ^ 球界「黄金時代」譚 104 川上哲治 1 - 「月刊リベラルタイム」 2014年1月号(2013/12/03発行) p.64-65 秋津弘貴
外部リンク
編集- 株式会社スポーツ玉澤 – おかげさまで創業113年 - ウェイバックマシン(2023年8月24日アーカイブ分)