ゲオルク5世 (ハノーファー王)
ゲオルク5世(Georg V. ゲオルク・フリードリヒ・アレクサンダー・カール・エルンスト・アウグスト(Georg Friedrich Alexander Karl Ernst August),1819年5月27日 - 1878年6月12日)は、最後のハノーファー国王(在位:1851年 - 1866年)。イギリス王ジョージ3世(ハノーファー王ゲオルク3世)の孫であり、イギリス王族としてカンバーランド公の爵位も継承している。英語名はジョージ(George)。
ゲオルク5世 Georg V. | |
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ハノーファー国王 | |
ゲオルク5世 | |
在位 | 1851年 - 1866年 |
別号 | カンバーランド公 |
全名 | |
出生 |
1819年5月27日 プロイセン王国、ベルリン |
死去 |
1878年6月12日(59歳没) フランス共和国、パリ |
埋葬 | イギリス、ウィンザー城、聖ジョージ礼拝堂 |
配偶者 | マリー・フォン・ザクセン=アルテンブルク |
子女 |
エルンスト・アウグスト フリーデリケ マリー |
王朝 | ハノーファー家 |
父親 | エルンスト・アウグスト(アーネスト・オーガスタス) |
母親 | フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ |
宗教 | キリスト教イングランド国教会 |
生涯
編集ハノーファー王兼カンバーランド公エルンスト・アウグスト(アーネスト・オーガスタス)とメクレンブルク=シュトレーリッツ大公女フリーデリケの長男である。幼少期に病気や事故が重なり、視力を失った。
1866年に起こった普墺戦争で、ハノーファー王国はオーストリア側に就いた。ハノーファーはプロイセン軍に占領され、1866年6月29日にハノーファー軍は降伏した。王と家族はオーストリアへ逃れた。プロイセン政府は9月にハノーファーを正式に併合したが、ゲオルク5世は権利を放棄せず、併合も認めなかった。亡命地であるオーストリアのグムンデンからヨーロッパの列強にハノーファー問題への介入を要請したが叶わなかった。なお、1869年にドイツ=ハノーファー党(ドイツ党の前身)が、この併合に対する抗議のため結成された。
ゲオルク5世は1878年に死去すると、ウィンザー城のチャペルに埋葬された。
ゲオルク5世は1843年に、ザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフの長女マリーと結婚した。2人は王太子エルンスト・アウグストの他、2女をもうけた。
子女
編集- エルンスト・アウグスト(1845年 - 1923年)
- フリーデリケ(1848年 - 1926年)
- マリー(1849年 - 1904年)
系図
編集(ハノーファー選帝侯) エルンスト・アウグスト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲオルク1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲオルク2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ・ルートヴィヒ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(ハノーファー国王) ゲオルク3世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲオルク4世 | ヴィルヘルム | エドゥアルト | エルンスト・アウグスト | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴィクトリア | ゲオルク5世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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