クラウス・プリングスハイム
クラウス・プリングスハイム(Klaus Pringsheim, 1883年7月24日[3] ミュンヘン郊外フェルダフィング - 1972年12月7日 東京都)は、バイエルン出身の指揮者・作曲家・音楽評論家・ピアニスト。レオニード・クロイツァー、マンフレート・グルリットらとともに日本におけるクラシック音楽の普及・定着に尽力するとともに、作曲や指揮の教師として、日本人音楽家の育成に多大な貢献を行なった。ドイツ政府から連邦功労十字勲章を、日本政府から勲五等瑞宝章が授与された[4]。
クラウス・プリングスハイム | |
---|---|
生誕 |
1883年7月24日 ドイツ帝国 バイエルン王国 フェルダフィング[1] |
出身地 | ドイツ |
死没 |
1972年12月7日(89歳没) 日本 東京都新宿区西落合[2] |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者、作曲家、音楽評論家、ピアニスト |
生涯
編集ドイツ時代
編集父アルフレート・プリングスハイムは、アシュケナジム・ユダヤ系豪商の家系に生まれた有名な数学者であり、優れた美術品蒐集家にして熱烈なワグネリアンでもあった[5]。双子の妹カーチャ(またはカティア)は、文豪トーマス・マンと結婚した[6]。マンはカーチャとの結婚の直前(1905年夏)に双子の兄妹の近親相姦を扱った小説「ヴェルズンゲンの血」を書き、これがクラウスとカーチャをモデルにした作品であるとの噂が立ったため、スキャンダルになったことがある[6]。また、植物学者ナタナエル・プリングスハイムは父アルフレートの叔父にあたるといわれる[7]。
父親の手引きで少年時代より楽才を発揮し、作曲家・音楽理論家ルートヴィヒ・トゥイレに入門するより早く、わずか13歳で最初の管弦楽曲を作曲。青年時代はリヒャルト・シュトラウスから影響を受ける。トゥイレに作曲を、ベルンハルト・シュターフェンハーゲンにピアノを師事するかたわらに[1]、ミュンヘン大学で数学・物理学を学んだ後、ウィーンに出てグスタフ・マーラーに指揮を学ぶ。1907年からジュネーヴ、1909年にプラハ、1914年にブレスラウにおいてオペラ指揮者として活躍した[8]。第一次大戦が勃発し、彼は1915年ブレーメン市立劇場総監督となる[9]。戦争が終わり、1918年よりベルリンに定住して、マックス・ラインハルトの劇場 Großes Schauspielhaus で音楽監督兼座付き作曲家となったのを皮切りに、音楽批評や指揮者として華々しい活動を続ける[10]。
1923年から翌年にかけドイツで最初のマーラーの交響曲の連続公演を敢行するが[11]、第一次世界大戦後のドイツにおいて過酷をきわめたインフレーションにより、《交響曲第8番》ならびに《第9番》の上演はできなかった。1920年代にはドイツ社会民主党に入党する一方、ダダイスム・サークルの音楽部員のひとりとして、ヘルマン・シェルヘンらと交流した。1923年ベルリン大学で「音楽社会学の根本問題」と題する講演を行い、その後もしばしば演壇に立った[12]。1929年に政府がクロール歌劇場の閉鎖を打ち出すと、反対の論陣を張った[13]。
一度目の来日
編集1931年ベルリン市立歌劇場監督の選挙に敗れる[14]。政党との訣別を決心してチャールズ・ラウトルップの推薦で同年来日し[15]、東京音楽学校(現東京藝術大学)の作曲教師に就任した。マーラーやストラヴィンスキー、クルト・ヴァイルら、当時としてはモダンな作品を学園オーケストラを指揮して上演し、新風を巻き起こした。学校オペラでは1932年に「デア・ヤーザーガー」を上演した[16]。
1935年には自作『管弦楽のための協奏曲』を初演したが[17][18]、古典主義的・伝統主義的な音楽観に基づき、「和声付けされたポリフォニックな日本音楽の創出」を呼びかけたがために、よりモダンな作風を志向する諸井三郎、箕作秋吉、田中正平、清瀬保二らに非難された。駐日ドイツ大使館がユダヤ人追放を迫る中、1937年6月に任期終了による辞表を提出した[19]。ローゼンシュトック、山根銀二、高橋均ら多くの文化人が愛惜の念を雑誌に載せている[20]。東京音楽学校校長乗杉嘉壽もクラウスの6年間に渡る音楽教育の実績を讃える記事を載せ、7月8日に告別演奏会を開催した[21]。10月に離日する際は東京駅で海軍軍楽隊が送別曲を演奏した[22]。
1937年にシャム政府に招かれ、11月からバンコクの芸術院で西洋音楽の教授に着任する[23]。1939年にタイ政府が枢軸国寄りの政策に転じたのを機に、「ドイツならびにイタリアの正当なパスポートを持たないユダヤ人」との理由で国外追放に処せられた。ちなみにタイ滞在中には、シャムやインドシナの民族音楽を研究している。
二度目の来日
編集1939年5月に再来日し[24]、戦中日本の時局に妥協的な、愛国主義的な創作に着手するかたわら、在日ユダヤ人音楽家に対するナチス・ドイツ政府の横槍にもかかわらず、自ら東京室内交響楽団を率いて、1941年から1943年まで指揮活動に没頭、モーツァルトやJ.S.バッハ、フランス・バロック音楽を本格的に紹介した。日本の戦局が厳しくなり、1945年5月から都内の修道院において、敵性外国人として軟禁状態におかれる[25]。
第二次世界大戦後は、進駐軍のために接収されたアーニー・パイル劇場(現・東京宝塚劇場)の指揮者となるが、待ち望んでいた教壇への復帰が果たせなかったことから、1946年に渡米、妹一族の亡命先カリフォルニア州に滞在した。この間の活動は不明である。
三度目の来日
編集1951年に来日20周年記念演奏会が東京で行われたのを機に、訪日の要請を受け再々来日した。この時すでに日本永住の決意を固めていた。武蔵野音楽大学教授に就任する。同年、加藤子明によりプリングスハイムの評伝『日本の幻想』が上梓される。1961年には、東京文化会館開館記念の「東京世界音楽祭」(1961 Tokyo East West Music Encounter)のために、吉田秀和らとともに日本側スタッフの一人として活動した。初期の「日本マーラー協会」「日本ヤナーチェク協会」設立にも奔走した。晩年は亡くなるその日まで、作曲活動のかたわら、英字紙のために音楽評論家を務めたという。
戦前・戦中においては、学生や演奏家の間で、気難しく癇癪持ちといったイメージが持たれていたようであるが、戦後においては、とりわけ武蔵野音大の学生・同僚の間で「プリン先生」の愛称で親しまれていた。また晩年には、ビートルズにも注目していたといわれる。
長男のハンス・エーリク・プリングスハイム(Hans Erik Pringsheim, 1915年-1995年)は『連想ゲーム』に出演したほか、『木曜洋画劇場』司会者を務めるなど日本でタレント活動を行った。
次男のクラウス・フーベルト・プリングスハイム2世は政治学者で、カナダのマクマスター大学名誉教授。ただしクラウス・フーベルトの実父はオペラ歌手のハンス・ヴィンケルマンである[26]。
作品
編集- 交響詩「ヴァレンタイン」作品6 (1896年)[27]
- 交響詩「海にて」作品22 (1900年)[27]
- 歌曲「ヴェニス」作品24 (1902年)[27]
- ピアノと管弦楽のための協奏曲 作品26 (1905年)[27]
- オペラ「ロイコとラッダ」(1917年)[28]
- テーオドーア・シュトルムの詩による10曲の歌 作品27 (1917年又は1918年)[28]
- シラーの「群盗」からアマリエのふたつの歌 (1921年又は1922年)[28]
- 古風な様式による小組曲 作品29 (1922年)[28]
- 四つの労働歌 作品31 (1922年)[28]
- 映画音楽「除夜の悲劇」 (1923年)[28]
- 管弦楽のための協奏曲 作品32 (1934年)[29]
- シャム国王行進曲 作品38 (1938年)[29]
- 興亜行進曲 作品40 (1938年)[29]
- ヴァイオリンとピアノのためのシャムのメロディ 作品37 (1938年?)[29]
- 日本海軍の行進曲による変奏曲とフーガ (1938年?)[29]
- ラジオ劇「山田長政」 (1939年)[29]
- シロフォンと管弦楽のためのコンチェルティーノ (1962年)[30]
- 主題と変奏 (1972年)[30]
門人
編集脚注
編集- ^ a b 東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第2巻 2003.
- ^ 「楽壇事情」『音楽年鑑 昭和48年版』音楽之友社、1973年、124頁。NDLJP:12431032 。
- ^ 加藤子明『日本の幻想 [Recollection of Japan : life of a musician Klaus Pringsheim by S. Kato]』乾元社、1950年、38頁 。
- ^ 『ベルリン・東京物語』音楽之友社、299頁。
- ^ 『ベルリン・東京物語』音楽之友社、13-15頁。
- ^ a b 『ベルリン・東京物語』音楽之友社、8-9頁。
- ^ 早崎えりな『ベルリン・東京物語』p.13(音楽之友社、1994年)
- ^ 『日本の幻想』乾元社、92-93頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、98-99頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、104頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、116頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、113-114頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、124-125頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、126-131頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、143-149頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、170-171頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、206頁 。
- ^ 木村重雄『現代日本のオーケストラ : 歴史と作品』日本交響楽振興財団、1985年3月、103頁。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、237頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、243-247頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、247-251頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、270頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、283頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、292頁 。
- ^ 『日本の幻想』乾元社、344-348頁 。
- ^ クラウス・H・プリングスハイム『ヒトラー、ゾルゲ、トーマス・マン―クラウス・プリングスハイム二世回想録』p.229-244。
- ^ a b c d 『ベルリン・東京物語』音楽之友社、305頁。
- ^ a b c d e f 『ベルリン・東京物語』音楽之友社、306頁。
- ^ a b c d e f 『ベルリン・東京物語』音楽之友社、307頁。
- ^ a b 『ベルリン・東京物語』音楽之友社、308頁。
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 22–23, 安部 幸明.
- ^ 『日本の幻想』乾元社、165頁。
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 56–57, 石渡 日出夫.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 63–64, 市川 都志春.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 150–151, 大森 盛太郎.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 173–174, 尾高 尚忠.
- ^ 日本の作曲家 2008, p. 185, 柏木 俊夫.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 237–238, 清瀬 保二.
- ^ 日本の作曲家 2008, p. 256, 桑原 研郎.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 258–259, 呉 泰次郎.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 262–263, 神良 聡夫.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 284–285, 小松 清.
- ^ 日本の作曲家 2008, p. 318, 佐藤 長助.
- ^ 日本の作曲家 2008, p. 340, 渋谷 修.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 353–354, 須賀田 礒太郎.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 388–389, 高田 三郎.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 417–418, 田村 徹.
- ^ “音楽家クラウス・プリングスハイムの晩年の教育活動 : 田村徹氏へのインタビューをもとに | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2024年10月2日閲覧。
- ^ 日本の作曲家 2008, p. 520, 長谷川 良夫.
- ^ 日本の作曲家 2008, p. 544, 坂 幸也.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 552–553, 平井 康三郎.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 623–624, 松永 通温.
- ^ 日本の作曲家 2008, p. 672, 村井 恒雄.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 692–693, 柳田 孝義.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 696–697, 山縣 茂太郎.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 708–709, 山田 一雄.
- ^ 日本の作曲家 2008, p. 749, 渡辺 茂夫.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 753–754, 渡 鏡子.
参考文献
編集- 加藤子明『日本の幻想』乾元社、1950年 (NDLデジタルコレクション)
- 早崎えりな『ベルリン・東京物語〜音楽家クラウス・プリングスハイム』音楽之友社、1994年。ISBN 4-276-21134-4
- 『ヒトラー、ゾルゲ、トーマス・マン―クラウス・プリングスハイム二世回想録』池内光久訳、彩流社、2007年。ISBN 4-7791-1288-5 - 長男の回想録
- 東京芸術大学百年史編集委員会 編「第5節 教職員. 2 外国人教師. (10) クラウス・プリングスハイム Klaus Pringsheim」『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第2巻』音楽之友社、2003年、1239-1245頁。ISBN 978-4-2760-0615-7。
- 『日本の作曲家 : 近現代音楽人名事典』細川周平・片山杜秀 監修、日外アソシエーツ、2008年。ISBN 978-4-8169-2119-3。