オートボルタ共和国
- オートボルタ共和国
- République de Haute-Volta
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← 1958年 - 1984年 → (国旗) (国章) - 国の標語: Unité - Travail - Justice
(フランス語: 連合、労働、正義) - 国歌: Hymne National Voltaïque
オートボルタの国歌 -
公用語 フランス語 首都 ワガドゥグー 通貨 西アフリカCFAフラン
オートボルタ共和国(仏: République de Haute-Volta)は、ブルキナファソ共和国のかつての国名である。フランス植民地からの独立(1960年8月5日)から革命家サンカラによる国号変更の日の前日(1984年8月3日)まで、この国名が使用された[1]。
のちにオートボルタ共和国の領土となる地域は、かつては行政的にはコートジボワール植民地の一部であったが、1919年にオートボルタ植民地として単独の植民地となった[2]。しかし1933年にオートボルタは分割され、象牙海岸植民地、スーダン植民地およびニジェール植民地の一部となる[3]。1947年9月4日に、もとの境界線にてオートボルタ植民地が再設置される[4]。1958年12月11日にフランス領アフリカ共同体(La Communauté Franco-Africaine)の自治共和国のひとつとして独自の政府が設置された[5][6]。「アフリカの年」1960年の8月5日に「オートボルタ共和国」として独立した[5][7]。
独立後のオートボルタでは、政治危機が発生するたびに、軍部が介入した[6]。選挙で選ばれた初代大統領のモーリス・ヤメオゴは、1966年にサングレ・ラミザナ大尉率いる軍部のクーデタにより追放された[1][6]。ラミザナ政権は1980年11月にセイェ・ゼルボ大佐の率いるクーデタにより倒された[6]。ゼルボ政権は短く、1982年11月に軍部下士官の反乱で終わった[6]。下士官らはジャンバティスト・ウエドラオゴを大統領に選んだが、政権はすぐに保守派と急進派に分裂した[6]。急進派が1983年8月4日に共和国の実権を握り、トーマス・サンカラを首班とする国民革命評議会(CNR)を設立した[6]。サンカラは権力を握って1年後の1984年8月4日に国名を「オートボルタ」から「ブルキナファソ」に変更した[6]。新国名の「ブルキナファソ」Burkina Faso は「汚職をしない人々の国」[6]ないし「高潔な人々の国」[1]を意味する。サンカラは自分自身を含めすべての政府高官に、銀行口座を人民が精査できるようにすることを命令した[6]。
以後の歴史や国の詳細に関しては「ブルキナファソ」の項を参照されたし。
出典
編集- ^ a b c 二石, 昌人『ブルキナファソの歴史』明石書店〈世界歴史叢書〉、2022年。ISBN 978-4-7503-5484-2。
- ^ 「西アフリカ内陸の近代 国家を持たない社会と国家の歴史人類学」p292 中尾世治 風響社 2020年8月20日発行
- ^ 「西アフリカ内陸の近代 国家を持たない社会と国家の歴史人類学」p385 中尾世治 風響社 2020年8月20日発行
- ^ 「西アフリカ内陸の近代 国家を持たない社会と国家の歴史人類学」p393 中尾世治 風響社 2020年8月20日発行
- ^ a b “1960: The year of independence” (英語). FRANCE24.com. 2024年1月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j Deschamps, Hubert Jules; Dresch, Jean; Echenberg, Myron (4 January 2024). "history of Burkina Faso". Encyclopedia Britannica. 2024年1月19日閲覧。
- ^ 「第10章 現代のアフリカ哲学」『世界哲学史8』筑摩書房〈ちくま新書〉、2020年、251-277頁。