エスタン (アヴェロン県)
エスタン (Estaing、オック語:Estanh)は、フランス、オクシタニー地域圏、アヴェロン県のコミューン。フランスの最も美しい村の1つ。
Estaing | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | オクシタニー地域圏 |
県 (département) | アヴェロン県 |
郡 (arrondissement) | ロデーズ郡 |
小郡 (canton) | ロット・エ・トリュイエール小郡 |
INSEEコード | 12098 |
郵便番号 | 12190 |
市長(任期) |
ジャン・プラダリエ (2014年-2020年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de communes Comtal Lot et Truyère |
人口動態 | |
人口 |
475人 (2016) |
人口密度 | 28人/km2 |
住民の呼称 | Estagnols |
地理 | |
座標 | 北緯44度33分17秒 東経2度40分19秒 / 北緯44.554749度 東経2.671964度座標: 北緯44度33分17秒 東経2度40分19秒 / 北緯44.554749度 東経2.671964度 |
標高 |
平均:m 最低:301 m 最高:760 m |
面積 | 16.96km2 |
公式サイト | www.estaing12.fr |
地理
編集アヴェロン県北東部にあるエスタンは、面積が16,96 km2である。南側の境界線となっているのがロット川で、支流のクサンヌ川もコミューン内を流れてエスタンの村でロット川と合流する。
標高の最低地点である301mは、ロット川がコミューンから離れた先、隣接するコミューンのゴラナックとネラックとの境界になっているゴラナック・ダムの西側である。標高の最高地点である760mは、ネラックとの境界に近いレ・プラという場所からすぐの、コミューン最北の地点にある。
県道22号線、97号線、980号線の交差点にあるエスタンの村は、直線距離でエスパリオンの北西8km、ラギオールの南西20km、県庁所在地ロデーズの北北東24kmにある。
由来
編集小さな村は1082年にde Stagnoの名で記載された。水のたまる場所を意味するétang(池または潟)からきている[1]。
歴史
編集13世紀発祥のエスタン家は、ルエルグ有数の貴族家門であったが、18世紀に断絶した。エスタンの家名は、1922年にジスカール家の数人が継承している。その1人がフランス元大統領、ヴァレリー・ジスカール・デスタンである。
巡礼路
編集エスタンは、フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の1つ、ル・ピュイの道が通っている。巡礼路は南のベシュエジュルからエスタン、その後ゴラナックの町とサン・マルタン教会へ至る。村はかつて、北東からコンクへと向かう道がロット川を渡る際のポイントの1つとみなされていた。落とし穴や、過酷な環境のオブラック地方を避けたい巡礼者たちの中には、ラギオールを経由してサン=フルールから直接エスタンに到着した者もいれば、サント・ジュヌヴィエーヴ・シュル・アルジャンスとヴィアデーヌ高原を通過した者もいた。
エスタンは、サンティアゴ巡礼の人々が通過の際に残していった痕跡、記憶をいまも生かし続けている。サン・フルーレ祭りは19世紀以来毎年7月の第一日曜日に行われる。伝統的に、カトリックのオーヴェルニュ司教座の司教とみなされてきたフルーレは、聖フルールと同一視され、聖遺物が1361年から1368年頃にエスタン家のピエール・デスタン枢機卿によってエスタンに持ち込まれた。フルーレはエスタンの守護聖人となり、6世紀以上、毎年7月の第一日曜日に特別豪華に祭りが祝われてきた。数百人の人々は聖職者や輝かしいエスタン家の人々の扮装をする。彼らは、聖遺物である古い胸像を掲げた礼拝行進に続いて練り歩き、そのうち、『コキーユ(ホタテ)のジャック』と呼ばれる3、4人の参加者たちは、大きな帽子をかぶり(巡礼者の証である)貝殻を身に着けて、ひょうたんと大鐘を装備する。
人口統計
編集2016年時点のコミューン人口は475人で[2]、2011年時点の人口より20.3%減少した。
1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2016年 |
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809 | 718 | 667 | 666 | 665 | 612 | 610 | 475 |
参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[3]、2006年以降INSEE[4][5]
史跡
編集- シャトー - 村を見下ろすのは、1945年に歴史的記念物に指定された印象的なエスタンのシャトーである[6]。シャトーは、歴史的なエスタン家の存在を想起させる。シャトーはロット川とクサンヌ川の合流地点を見下ろしている。その歴史は15世紀までさかのぼり、2005年に元大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタン、ヴァレリーの弟で元アルプ=マリティーム県選出国会議員・元エスタン首長のオリヴィエ・ジスカール・デスタン、そして彼らのいとこフィリップ・ジスカール・デスタンらによって購入された。このシャトーは、コンクのサント・フォワ修道院とともに、アヴェロン県の最も有名で最も輝く記念物の1つである。フランス第一共和政時代、エスタン提督がギロチン刑となった後、シャトーは分割されて売られた。1836年、サン・ジョゼフ会の修道女たちが、小修道院、学校、養老院として利用するためにシャトーを購入した。彼女たちは2000年にシャトーをコミューンに譲った。2005年に不動産会社が仲介に入って51万ユーロでジスカール・デスタン家に売却された[7]。
- エスタン橋 - ロット川に架かり、左岸のセブラザックと右岸のエスタンをつなぐ。1490年から建っている。歴史的記念物[8]
- サン・フルーレ教会 - 15世紀。歴史的記念物[9]。かつてサン・フルーレ小修道院があった場所に建てられた。15世紀のキリスト像、17世紀のピエタ像、金色の祭壇の中には聖ジャック像を収蔵。
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エスタンのシャトー。15世紀から17世紀
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ゴシック建築の橋
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フランソワ・デスタン像
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エスタン橋の十字架
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役場
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サン・フルーレ教会
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ヴィナックの教会
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ウラドゥの礼拝堂
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サン・フルーレの礼拝堂
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サン・フルーレの泉
脚注
編集- ^ Albert Dauzat および Charles Rostaing, Dictionnaire étymologique des noms de lieux en France, Paris, Librairie Guénégaud, , 2e éd. (1re éd. 1963), 738 p. (ISBN 2-85023-076-6), p. 273.
- ^ Population municipale légale en vigueur au 1er janvier 2019, millésimée 2016, définie dans les limites territoriales en vigueur au 1er janvier 2018, date de référence statistique : 1er janvier 2016.
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=13108
- ^ https://www.insee.fr/fr/statistiques/3293086?geo=COM-12098
- ^ http://www.insee.fr
- ^ http://www2.culture.gouv.fr/public/mistral/merimee_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=PA00094021
- ^ Jean-Marc Philibert in L'argent de nos présidents : De Gaulle, Pompidou, Giscard d'Estaing ...
- ^ http://www2.culture.gouv.fr/public/mistral/merimee_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=PA12000037
- ^ http://www2.culture.gouv.fr/public/mistral/merimee_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=PA00094022